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ベトナム戦争とは

社会問題
12 /24 2018
ベトナム戦争とはⅢ

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はじめに


前回キャチ・アイの図として使用させて頂いた写真について説明しておくべきことのべておきます。
1972年6月8日南ベトナム軍がキム・フックさんの暮らす村にナパーム弾を投下。この時、逃げ惑う村人たちとともに裸で逃げる9歳の少女だったキム・フックさんを撮影した写真(フィン・コン・ウト撮影)は「戦争の恐怖」と題され、全世界に配信されました。世界に衝撃を与えたこの写真は1973年にピューリッツァー賞と世界報道写真大賞を受賞するとともに世界史を変えた1枚とも称されています。ベトナム戦争の写真には目を背けたくなるような写真がたくさんありますが、その写真では無くこの写真が「反戦」を訴えかけ、ベトナム戦争を終わらせた「写真」の一枚と称されているのはよくわかります。写真1枚には人の想像力を掻き立てる情報や言葉に表現できない情報が沢山詰まっています。
キム・フックさんはこの空襲で重度の火傷を負い、一命はとりとめたものの17回にも及ぶ手術を受けています。1992年結婚、現在は2児の母親です。この写真を撮ったウトさんとも再会果たしています。

(4)中ソの対立激化と米ソの緊張緩和
 ベトナム戦争ではソビエト連邦と中華人民共和国は双方ともベトナムを支援していたが、両国の政治姿勢の違いや両国の領土問題を抱えて対立は深まっていた。中国で文化大革命起こり先鋭化した1960年代末には国境線の両側にソ連軍(65万8千人)中国人民解放軍(81万4千人)が対峙する事態になった。そして両軍の衝突、いわゆる「ダマンスキー島事件」が起きる。
このような状況受けてソ連のブレジネフ書記長はアメリカとの間の緊張緩和を目論み直接交渉にはいる。



(5)北爆再開から講和へ
米ソが対立から緊張緩和への流れを受けて、北ベトナムとの講 和を急ぐニクソン大統領は1972年5月に北爆再開を決定。この作戦は圧倒的な航空戦力で北ベトナムの国力と軍事力を徹底的に削ぐことで北ベトナム政府を和平交渉に応じさせることが目的であった。以前のような散発的な北爆ではなく、徹底的で集中的な無差別攻撃を採用。1万5千機の航空機が6万トンの爆弾を投下するとともに港湾を機雷で封鎖。そのためハノイなどの地区は完全に焼け野原になり軍事施設だけでなく電力・水・道路などのインフラ関係も大きな被害が出た。また港湾を機雷で封鎖されたため中国やソ連などの兵器や物資届かなくなっていた。アメリカ軍によるこの作戦は純軍事的にはほぼ成功をしたといえる結果である。北ベトナム軍は崩壊する直前にまで追い詰められ、多数の死傷者がでた北ベトナムの市民にも厭戦気分がひろがりつつあった。ただ北ベトナムに幸いだったのは再度の北爆は国際世論の轟轟たる非難と反発から短期間で中止されたが、皆さんはこの北爆をどう解釈しますか。私は太平洋戦争の末期に「原爆」投下という無差別攻撃で非戦闘員である市民に多数の死傷者をだしながら「戦争を早く終結させるためにやむえなかった」という論理と重なって見えます。どちらの場合も色々な選択肢があったはずです。「已むえない」の一言で済ますべきではないと思います。ただ今回の場合、国際世論の轟轟たる非難・反発がブレーキ役を果たしているのはいいですね。
さて話を戻しますと、ニクソン大統領は中華人民共和国を訪問 する意向を発表し(1971年7月)翌年2月に訪中。「ニクソンショック」と言われ世界に衝撃を与えました。そして5月に北爆を決定した。こうした流れから中国はアメリカが北爆を再開することを知っていた可能性があります。今度の空爆はアメリカが徹底的にやることを中国が知っていたとしたらどう考え、どんな行動をとったのかその時の中国の動きはわかりませんが興味があります。多分アメリカ軍の北爆や海上封鎖は中国の暗黙の了解を得ていたと思います。ソ連がアメリカに近づき、アメリカは中国に近づく。この大国のパワーゲームの中で小国の北ベトナムは中華人民共和国の裏切り行為だと批判し、「反中国」となりソ連との関係を強めていくが、2大支援国家が北ベトナムから手を引く政治情勢の中で孤立していくしかなかった。
状況が目まぐるしく推移する中、和平交渉の開始から5年近く年月を経て1973年に北ベトナム、アメリカ、南ベトナム、南ベトナム共和和国臨時革命政府の4者の間でパリ協定が交わされ、ニクソン大統領は米国民に「ベトナム戦争の終結」を宣言した。



(6)南北統一へ
パリ和平協定で北ベトナムとアメリカの間で「アメリカ軍正規軍の全面撤退と外部援助の禁止」「北緯17度線は南北の国境ではなく統一総選挙までの停戦ラインであること」等の合意の元2か月後にはアメリカ軍の撤退は完了。
北爆停止後体勢を立て直し、軍事力を増強してきた北ベトナムとアメリカ軍が撤退し、アメリカからの援助も激減する南ベトナムの軍事力の差は拡大していった。
パリ協定締結後アメリカ軍の再介入を恐れて、自重していた北 ベトナム軍だが、南ベトナム軍への攻撃(パリ協定違反)は増加していた。(なおこの渦中に中国人民解放軍が西沙諸島に駐留する南ベトナム軍を宣戦布告無しに奇襲攻撃を行い、占拠。そして現在も実行支配が続いている)
一方のアメリカはウォーターゲート事件でニクソン大統領は辞任。後を引き継いだフォード大統領はオイルショック後の国内の不況からの脱出が最優先課題となりベトナム情勢に対する興味を失っていった。(パリ協定違反である北ベトナム軍の南ベトナ軍への攻撃に異を唱えることもしなかった。
その状況を受けて、北ベトナム政府は「アメリカ軍の再介入は無い」と判断し、南北ベトナムを統一すべく1975年3月南ベトナム軍に対して全面攻撃を開始した。兵力も士気も落ちている南ベトナム軍は総崩れ状態になり北ベトナム軍は一気にサイゴン市に迫った。
サイゴン陥落は避けられない状況となりアメリカ政府と軍は撤退作戦を開始。アメリカ政府・軍・南ベトナム関係者が必死の脱出行う。この時在留邦人はアメリカ軍に拒否され、日本政府の救援機も運行されなかったため混乱のサイゴン市に取り残された
4月30日南ベトナムのミン大統領は戦闘の終結と無条件降伏を宣言し、南ベトナムは崩壊、アメリカ合衆国の敗北が決定した。
1976年南北ベトナムの統一とベトナム社会主義共和国の樹立を宣言

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ベトナム戦争

社会問題
12 /08 2018

ベトナム戦争とはⅡ

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表題を「ベトナム戦争」とせずに「ベトナム戦争とは」としたのは私なりの理由があります。「ベトナム戦争」の事実だけ正確に知りたいのであれば、教科書や辞典を読めば済むことで、より詳しく知りたければその事に長く関わって来られた専門家の人たちの書物を読めば済むことです。またその事に関しては全くの素人で、勉強不足であることは十分自覚していますし、「こんな程度の事はみんな知っているよ」と言われるだろうなと思います。それでもその馬鹿が敢えて「大胆不敵」にもこんな事を始めたのは一つには「あの時代自分は何を考えどうしようとしていたのか」をこの時代から検証してみようという事で始めました。私は自称「随分遅れてやって来た全共闘世代」と位置づけています。それで同じ事実でもその人の立ち位置や背負ってきたものによって見える風景が随分違うものになります。いつの時代でも大人が何と言おうと時代の新しい波を創っていくのは20代の若者たちです。そして1968年が歴史の中でターニングポイントとなった年とするならあの時代を生きて来たものは今の若者たちに何かを伝えておくべきだと思います。私のようなものから見えている風景を伝えることも何かの足しにはなるだろう。という事で「ベトナム戦争とは…」と言う自分への問いかけなのです。       

とここで視点を20歳の彼ら視点で見ると「ベトナム戦争はとは」歴史事実の一コマに過ぎないのです。私が20歳の50年前 1920年頃の出来事―1917年ソビエト政権樹立、1918年第1次世界大戦終結、1921年原敬首相暗殺される、1923年関東大震災などがありますがその50年前の出来事をいくら熱く語られても実感としてピンとこなかったと思います。ところが今から50年前の1968年の事は昨日のように語れるわけです。記憶(memory)と歴史(history)の違いですね。若者たちにも全く興味を持たれていないテーマに挑むなんてまさに「ドン・キホーテ」状態ですね。

 

 

「閑話休題」

前回の「アイ・キャッチ」に使用させて頂いた写真は有名な写真です。報道家写真家・澤田教一さんがベトナム戦争を報道した時に「安全への逃避」という題で発表されたものです。この作品はピュリーッツアー賞を初めいくつかの賞を受賞。戦争と言う生命の危険がいつもある厳しい現場に出向き身体を張って「戦争の事実」を世界に発信する人たちの中から彼が選ばれた。この分野でも世界に誇ることのできる人が出てきたと少し興奮を覚えた記憶があります。(ノーベル賞の授賞者に日本人の名前が発表された時の感覚)その彼も1970年取材現場から帰る途中に強盗に会い殺害された。彼の事はNHKで「特集」が放送され、ドラマも「放映」されました。政府も彼の功績を称えて勲章を授与しています。

そして今、世間は「自己責任論」で喧しい。あの時代にはまだ危険な地域に身をさらし(実際に強盗に襲われ死亡している。)、報道している人たちをきちんと評価する「空気」が政府も含めまだあったのです。今の声高に「自己責任論」を語る時代では澤田さんは無駄死になり、何も行動しないで

「見ざる」、「聞かざる」、「言わざる」で生きるのが

ベストの生き方になります。そんな社会を目指すのですか。

 

1、ベトナム戦争

 ・北ベトナム軍と南ベトナム解放戦線とが南ベトナム政府軍とアメリカ軍と戦った戦争。途中からは隣国のカンボジアとラオスに拡大したので、第2次インドシナ戦争ともいわれる。

(1)  ベトナム戦争の開始

1964年ジョンソン大統領は「トンキン湾事件」(北ベトナム軍がアメリカ軍の駆逐艦に魚雷攻撃をしたとされる事件)を口実に北ベトナムを爆撃。1965年恒常的な北爆を開始。更に18万人余りのアメリカ軍を投入。他にも反共の国々(韓国、オーストラリア、タイ王国など)も参戦。

ソ連と中国が対立しながらも競争するように北ベトナムに軍事援助を行う。ために北ベトナム軍の兵器は急速に充実強化される。

(2)  戦闘状況

・アメリカ軍は最盛期で50万人の地上軍を投入。

・索敵殺害作戦 村や森に紛れた北ベトナム兵や南ベトナム解放戦線のゲリラを探し出し、殲滅する事を目的としていた。

その作戦の性格状ナパーム弾などによる農村への無差別攻撃や、化学兵器も使用された事やアメリカ軍や韓国軍兵士による村民への暴行・殺戮・強姦・略奪を引き起こす。

・韓国陸軍によるビンディン省の大量虐殺

1966年ビンディン省で400人、1200人、65人、380人   フガツ省では3万5千人を虐殺 その他にも虐殺事件を起こしている。

1968年 無抵抗の村民504人を無差別射撃などで虐殺したソンミ村虐殺事件が発生(この事件が報道されるとアメリカ国内で反戦運動が激化)

・テト(旧正月)攻勢1968

北ベトナム軍と南ベトナム解放戦線は南ベトナム軍とアメリカ軍に大規模な一斉攻撃をかけた。その時サイゴン市のアメリカ合衆国大使館も占拠されるなど南ベトナム軍とアメリカ軍は一時混乱状態に陥ったが、体勢を立て直し反撃。南ベトナム解放戦線は壊滅状態になる。ジョンソン大統領は「テト攻勢は失敗した」と声明したが、南ベトナム解放戦線側は・7万人近くの人数が参加してベトナム国内の44の省都うち34省都と64の地方都市、米軍基地などを攻撃している。このテト攻勢でアメリカ軍はこの年の死者の30%余りをこの時に失っている。この攻勢後情勢は大きく変わっていく。アメリカ国内では「ベトナムからの撤退」を主張する動きが勢いをつけ、ジョンソン大統領は次期大統領選の出馬辞退と北爆の部分的停止を発表。

(3)カンボジアとラオス情勢

・カンボジア

1970年「容共的元首」シハヌーク国王の外遊中にマタク殿下とロン・ノル国防相がクーデターを成功させ、「クメール共和国」の設立を宣言。なぜかこの時北ベトナム軍がカンボジアに侵攻。この後ロン・ノルのカンボジア政府軍と中華人民共和国の支援を受けた毛沢東思想の信奉者のポル・ポト率いるクメール・ルージュの間でカンボジア内戦が始まる。

北ベトナムのカンボジア侵攻の後今度は南ベトナム軍とアメリカ軍が中華人民共和国とソビエト連邦から北ベトナムと南ベトナム解放戦線への物資支援ルートである「ホーチミンルート」「シハヌークルート」の遮断を目的にカンボジアに侵攻。一時的には遮断できたがすぐ復旧され目的は成功しなかった。

                         

11/27のツイートまとめ

社会問題
11 /28 2018
K0wtsNmnVI9Cx70

@komochi2konbu いつも小気味のいい話拝見
11-27 23:14

ベトナムの闘い

社会問題
11 /27 2018

ベトナム戦争とは

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 全共闘関係の話は前回で一応終わりとします。全共闘運動はたった2年間の出来事にすぎません。長い歴史の時間の中でみるとほんの一瞬の出来事です。50年たった今でも何も語れませんと言う人もいますし、逆に今だからこそあの時代を知っている人はそのことを語る責任があるという人もいます。50年後の今でも議論がされていて未だあの時代の出来事を現代史の中でどう位置付けるか結論めいた事はでていないと言います。また私にしても東大安田講堂の攻防戦を筆頭に世間の耳目を集める事件が集中して起きたあの時代を歴史ではなく、リアルタイムで同じ世代の若者たちの行動や出来事を見てその行動に共感したり、またその発言に反発を覚えたりと同じ時代の空気を肌で感じたものしか分かり合えない微妙なニュアンスの違いやその時代が持つ感覚わかるはずだと思っている(例えば新左翼〈注〉のセクト「赤軍派」が坂道を転がり落ちていく様に最後にテロリスト集団の「連合赤軍」になり果てるその過程は定石通りのコースであのような結果になるしかなかった。)同世代の者でも深い霧に覆われていて部分は見えているのだが、全体像が見えなくて「ナゼだ」と自分には納得できない出来事が結構あり、そのモヤモヤとしてわからない部分を自分で少しでもスッキリさせたくてこんな事を始めました。

1968年頃は今振り返ると現代史的に見てターニングポイントとなった年であった。と言う認識が諸国ででは定着しつつあるようです。この1968年頃の世界の出来事をもう1度確認してみると、アメリカではキング牧師を中心とした黒人による人種差別撤廃闘争が活発化していく中で反戦の声をあげ、それが学生運動や広範な人々の反戦集会と繋がりベトナム反戦運動は大きな盛りあがりを見せていた。そのキング牧師の暗殺事件も起きている。フランスでも後に「5月革命」と呼ばれた運動の始まりなったとされる学生の叛乱が起きている。社会主義国でもソ連(1922年から1991年まで存在した国家「ソビエト社会主義共和国連邦」世界初の社会主義国として誕生)に批判的なチェコで「プラハの春」と呼ばれた民主化運動が起きている。ブラジルでは反政府運動、メキシコでは学生運動、中国の「文化大革命」、日本は「全共闘運動」・「ベトナム反戦運動」と現体制の変革を求める動きが起きている。

なぜこの時期に申し合わせたかのように変革を求める運動が起きたのか?

フランスの「5月革命」や日本の「全共闘運動」などの変革を求める運動には「人々の要求や願いに答えようとしない現体制への不満が地下の奥深くのマグマに溜めこまれ、臨界点に達している。」そこにそのマグマを爆発させる出来事が起き、一気に拡大する。

1968年のこの世界の運動をリンクさせたのが「ベトナム反戦運動」ではなかったのかと考えている。

ある人曰く同時代の人には何も言わなくてもその微妙な違いは理解できるが、後の世代にきちんと伝わっていない。例えば60年安保闘争の全学連と68年の全共闘運動の違い。そこをきちんと理解してないと結論は全く違ってくる。にも関わらず…。

という事でベトナム戦争を語るには戦後の東西冷戦から始めたいと思う。

第2次大戦前に植民地であった多くの地域が独立宣言をして新しい国造りをし始めた。(1945年ベトナム民主共和国 1946年フィリピン インド パキスタン 1948年ビルマ連邦〈現ミャンマー〉 大韓民国 朝鮮民主主義人民共和国 1949年インドネシア 中華人民共和国)その時多くの社会主義国家が誕生した。そしてソ連を中心とするグループと資本主義のアメリカを中心にしたグループに分かれて対立する構図が出来上がった。

 

そして1950年にはソ連や中国の支援を受けた北朝鮮が大韓民国へ突如侵略を開始し、朝鮮戦争が勃発し実質的な戦闘は1953年まで続いた。(「朝鮮休戦協定」締結 現在も休戦しているだけで戦闘状態にある)                                 フランス領インドシナではベトナム民主共和国が独立宣言をしたがフランスはこれを認めず、1946年第1次インドシナ戦争が勃発。1954年にフランスが敗北したため、ベトナムは独立を果たすが、アメリカは共産主義の拡大を恐れ、ジュネーブ協定によって北緯17度で南部を分割し、アメリカが支援する軍事政権=ベトナム共和国を建国(1955年)した。ところがこの政権のジエム大統領一族による独裁化と圧政に南ベトナムの国民の反発を受け、反政府勢力が力をつけ内乱状態に突入していく。そして1959年北ベトナムは南ベトナムの武力解放を決定。1960年南ベトナム解放民族戦線が樹立され、本格的・大規模な内戦状態になる。
この後アメリカが本格的に介入してくるのですが、その時の話も結構な量になると思われますので今回はここまでで


〈注〉新左翼 マルクスレーニン主義では大衆や革命を指導する前衛となる党がすべてを指導する。ために前衛党は無謬な存在でなけれならない。日本では共産党がその位置になるのだが、それを否定して我々が前衛党であると宣言した党派

質問状

社会問題
11 /18 2018

4、全共闘運動への質問状
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質問1、日本は高度成長期に入りこれから少し豊かで自由な生活ができそうだと実感しはじめた時代の学生達の叛乱。それまでは革命は貧困が産み出す様々な様相(独裁体制等)を一挙に覆し新しい社会を形成しようとする行為であるとするなら豊かな社会では革命は起こりえないのに、1968年にはフランスでも学生たちの叛乱が発火点になり、後に「5月革命」と称される全国民を巻き込んだ運動になっている。これは単なる偶然の一致なのか、意味のある共振現象を起こしたのか。

 

「私の見解」 ここは抽象的な言い方をするほど分かりやすくなると思いますのでそれで言うと「貧困からの脱出」と「平和な社会の建設」は人類共通の課題です。まず物質的な貧困の克服のために経済の発展が求められます。その経済の発展と共に豊かさも手に入れる訳ですが、経済発展に伴う歪みとして公害などが出てきます。日本では丁度この時ミナマタから始まる4大公害問題が社会的に注目を集めていた時期です。貧困から抜け出て生活にゆとりが出来ると人は精神的な豊かさを追求し始めます。個の成長過程では20歳頃が「自由とは何か」といったような抽象的な事も含めて色々と考える時期です。日本社会は戦後の混乱期の貧困を乗り越え一息ついて、周囲を見渡すと負の遺産である「公害」が目に入る。否が応でも「豊かさとは」と自問せざるを得ない。そして団塊の世代は20歳。親の世代が頑張って築き上げた戦後の時代の結果がこれか。これからの将来私たちはどう生きていけば良いのか。という問いかけの運動ではないでしょうか。だから戦後の民主主義

を含めて戦後を全否定することが必要となる。その批判の最右翼にいるのに自分がその批判や否定の対象になるはずがないと考えていて、周りの空気の変化を読もうともしなかったのが東大の当局者と日大の古田会頭です。それが事件を悪化させました。

質問2 どんな現象であれそれが出現する「因果関係」というものがあり新左翼と呼ばれる各セクトが既成政党である共産党を否定する形で生まれた過程やそのために過激的であるのも説明がつくのですが、この全共闘運動は前段の予兆や兆候が無くまさに突然出現しています。(寡聞にして私が単に知らないだけかも知りません)

「私の見解」私たちの世代はあらゆる「権威」を否定し、組織による束縛を嫌うというなんかどこかのドラマのナレーションに出てくるような性格がある。そのことから既成政党の権威を否定し、各セクトの束縛を嫌い第3の道が自然発生的に生まれたと解釈するしかないようです。ここで急に話を変えるようですが…「全共闘運動」の話をしてきた私のイメージは「全共闘運動」は月光仮面」である。若い人達は全く知らないでしょうが当時の子供たちを夢中にさせたヒーロー者の元祖でテーマソングをこの歳でも覚えています。川内康範作詞の出だしは「どこの誰かは知らないけれど、誰もがみんな知っている。」で始まり、「疾風のように現れて疾風のように去ってゆく」「月光仮面は誰でしょう」

私の中では「全共闘」は何者かをいつも問い続けていたと思います。「どこの誰かは…で始まり、全共闘は何者でしょう」というモヤモヤ感があってどこかでスッキリと納得したい自分がいるのですが中々回答が見つかりません。

質問3 「疾風のように」突然に現れた全共闘運動は燎原の火の如くたちまち全国に広がりました。(これも全共闘を巡るナゼのひとつ。各セクトが組織の全力をあげても出来なかった自分たちの運動を全国に広めることをあっさり成功させてしまう)なのに実質2年ぐらいで運動は急に終わり告げる。「疾風の様に去ってゆく」何故。その当時の流行現象の一つ過ぎなかったのか。

「私の見解」 全共闘というのは学校の状況について同じ共通認識を持つ有志が集まり宣言すれば全共闘を名乗りあげる事が出来る点だ。組織の束縛を嫌い何よりも自由を最優先する私たちの世代のノンセクトラジカルな学生には自分の自由意思で運動にすぐ参加出来て行動できるのは魅力的であった。この自由とは逆に言えばいい加減であり、誰も責任を負わない体制でもあるわけです。運動が高揚しているときはそれいけとお祭り騒ぎになるのですが、守勢にまわると脆い。その点組織は組織の基盤となる思想があるのですから強い。

問4 「大衆団交」「全員参加の直接民主主義」という新しい風を起こしながらも政治運動としては未熟すぎるし、最終目的が何かはっきりしていない。東大闘争は「帝国大学解体」を叫ぶがその後のビジョンを示していない。日大闘争も然り。そのため次の戦略や戦術が立てられず目的が「バリ・ストをすること」に矮小化されてしまった。そしてこれだけ全国に広まった運動なのに継続されることも無く、現在に繋がる何を残したのか。ナゼ運動の思想や方法論などが継続されなかったのか。

「私の見解」 私も今だからこんな偉そうなことを言いますが、20歳そこそこ若者にそこまで要求するのは酷だろう。これが全共闘運動の限界だったのだろう。私としては「大衆団交」や「直接参加の民主主義」」が後2年ぐらい続いてこの方式が日本社会に認知されていたら今の日本よりはもう少しましな社会が出現していただろう。そのことを敏感に感じとったのが権力側だった。法をつくり、警察の警備力を向上させ一気に学生達を潰しにかかってきた。それに対して学生たちは初めから権力に玉砕するつもりだったのではないか。そこに若者たち特有の美学があって敢えて負けると解っていても闘ったのではないか。あのエリート集団の東大生が東大闘争で権力側に勝てると予想していたとは思えません。また当時高倉健さん主演のヤクザ映画が若者の支持を得ていました。吉田松陰の「かくすれば、かくなると知りながら、已むに已まれぬ大和魂」という心境だったのではないか。ここで派手に負けること=全共闘の敗北に意義を見出し、運動の流れの中で一点での対権力の戦いではなく、具体的で局所的な部分で国家と対峙する戦略に切り替わっていったのではないか。あるものは「エコロジー運動」へ、「マイノリティ運動」「フェミニズム運動」へと多様かつ継続できる運動に自然に切り替わっていったのではないか。。


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グッチー

昨年古希を迎えました。人生も終盤。学生時代の言葉で言えばそろそろ人生の「総括」と何か新しい自分を発見するためブログを始めました