松明にも灯火にもなれないが、せめても埋火ぐらいには
私たちの世代は戦前の価値観を持ちながら戦前の軍国主義を全否定する形(全体主義には個人主義であり、権威の否定、平等の思想、そして個人の権利と自由等)で子供を育てなければいけなかった親の世代の元で戦後民主主義教育の第1期生として成長してきました。そして日本の社会も戦後の日本の混乱期から脱し、経済は高度成長を続け発展途上国から先進国へ一気に駆け上がってきました。その急成長故の歪や矛盾の解決する時間も考える余裕も持てず問題を中途半端にしたまま日本社会は68年を迎えました。そしてもう一方の私たちの世代も思春期に入り自分の存在理由を考え、世の中の矛盾や不合理なことに気づき始めます。急速な経済成長は頭脳優秀で従順な会社員を大量に必要としそれに合わせるように社会のシステムも変わりつつありました。受験戦争は激化し大学に求められることが変わり、大学の在り方・学生の存在理由が問われる時代になってきました。その時私たち団塊の世代が大学生だったわけです。それがあの全共闘運動を産み出したのだと考えています。
東大闘争
全共闘運動以前の学生運動では抗議の手段として授業放棄やデモぐらいにとどまっており大学当局が痛痒を感じるものではなかった。当時の東大の大学当局も医学部が登録医制度に反対する無期限ストに突入したときも楽観的な見通し持っていたと思います。しかし時代は移り変わっていました。67年の第1次羽田闘争でヘルメットにゲバ棒というスタイルで機動隊に立ち向かう学生達の出現は時代の変化(学生運動はより過激なる)を予見させるものでした。そんな事に興味も関心も無かった学校当局はこの登録医制度問題を巡る学生への不当処分を行い、それを発端として学生たちは抗議行動として安田講堂占拠、機動隊の導入でこれを排除したことが今度は他学部の学生達の反感を呼び、7学部が無期限ストに突入安田講堂前で7000人の集会を開催。そして大河内一男総長は大衆団交拒否。学生たちは再び安田講堂を占拠。講堂内集会において各学部の代表者や各党派の代表が集まり全学共闘会議が結成され、医学部不当処分撤回、機動隊導入の自己批判などの7項目の要求で闘争宣言
こうして既存の政党の下部組織でもなく、各党派のように思想の元に運動する組織でもなく、思想・信条は異なっていても「別個に立って共に敵を撃つ」という行動原理で全く新しい運動体が出現したのだ。その運動体を纏めていくためのスローガン的に語られたのが「連帯を求めて孤立を恐れず、力及ばずして倒れることを辞さないが、力尽くさずして挫けることを拒否する」という言葉なのでしょう。
各党派や既成政党はまず理論や思想、世界観があり、それを実現するための目標や工程、行動が決まりそのために運動体としての組織が必要す。組織の効率だけで云えば独裁体制が一番いいが、組織全体を維持していくためには個々の意見も反映させる間接民主主義をとる。個々が代議士一人を選び。その代議士が執行役員を選び、執行役員が方針を多数決で決めその多数決で決まったことにはその組織員は絶対に従わなければならないという暗黙のルールがあります。
それに対して「全共闘方式」では個々、各党派が個人の自由意思でこの運動に参加している側面を持つため、直接民主主義の方式を採らざるを得ず、相当な議論が必要だし、ある決定事項に自分の意思表示や自行動は由裁量ができる良さを持つ反面組織全体を考えると組織は常に崩壊する危機を内包しています。
そのような運動体を結束させ行動を維持していくためにはターゲットは何か、何を目指すのかの目的などをはっきり打ち出さないといけません。そして所謂理論武装して、行動はより過激な方向へと向かわざるを得なくなります。
前回「私たち全共闘世代の特徴として個人主義が尊重され、権威の否定は当たり前で長幼に関係なくみんな自由で平等であるべきだし、大人数いる団塊の世代の中では個人の主張を強く述べる事が大事でその理屈や議論することで民主的方法により勝ち残る術を身に着けてきた。」とのべました。東大生はエリート集団です。私たちが挫折した色んな出来事を簡単にクリアして人生順風満帆で東大に入学してきたと思います。そしてもう一方の大学当局の方も「大学の自治」「学問の自由」を盾に取り俗世間とは違った行動理念で戦後をやり過ごしてきました。自分たちが批判されることがあるはずがないとある意味で民主主義の理念を理解しようともしなかった戦前の古い体質がまだまだ残している最後の集団だったと思います。その両者がぶつかりあった。今までの人生に失望したりする事が無かった学生の方に「憧れて入学した東大が「民主主義のイロハ」のイも知らない」と大きな失望が広がって「だったらそんな大学なんて潰しちゃえ」となった部分も大いにあると思います。
「真理を追求する」べき大学で医学部の無期限ストライキがなぜ起こったのか、学生は何に怒りをぶつけているのか?知ろうともしない、まともに向き合わない姿勢や普段「大学の自治」重要性を説きながら学生達と話し合おうともせず、簡単に外部の力を借り解決しようとする姿勢を学生たちは糾弾した。東大の教授であるという特権的地位にあぐらをかき実は何もしてこなかった教授陣を痛烈に批判した。天皇制も含めて戦前のあらゆる権威を否定する戦後の民主主義の教育で育ってきた全共闘世代にはこういう権威主義者はどうしても許せなかった。そして「東京帝国大学解体」をスローガンにした。
それは明治以来営々と続いてきた東京大学の制度や精神の病理を告発し、解体して「人間」の復権を目指す新しい大学を創りだすはずだった。東京大学が持っている様々な欺瞞性を告発していく過程の中でその東大の一員であった内なる自分こそ告発されねばならないのではないか?それを乗り越えない限り運動の発展は望めないと「自己否定」する必要性がこの東大闘争のテーマになった。
東大闘争ではこの「大学解体」と「自己否定」のスローガンが登場して「大学問題」の枠を飛び越えて「学生と国家権力の戦い」という構図になってきた。それは元々結成当初から各党派が加わっていて政治色が濃い全共闘であったから「社会運動」より「政治闘争を」という流れになったのだと思います。大学当局の硬直した傲慢な姿勢に学生達は怒り、行動をより過激化させていったのだと思います。
今回はここまでにしておきたいと思います。申し訳ありません。自分が予想していたより話が長くなってきています。
はじめに
前回日大闘争を中心にと言っていましたが、色々と調べていくうちに私が語りたいと思うことにやっぱり東大闘争と日大闘争の両方を語らないとあの時しかなかった混然とした熱気みたいなものが上手く語れないと思うようになりました。全共闘を語るには私には荷が重かったかと思い始めていますが…。まあ私なりにやってみます。
幕末から明治維新にかけて頃が典型的な例ですけど歴史には大きなうねり・流れがあってその人がどの位置にいたかによって後の歴史が変わっただろうなと思う場面がいくつもありますし、一人有能な人物が倒れてもすぐその後継者が現れ(伊藤博文なんかは維新運動の初期の頃は端役過ぎなかった)幕末から一気に近代国家にまで仕上げてしまう。一方日本の現状に、将来に危機感を持った青年将校たちが起こした2・26事件は青年将校たちの思いとは逆方向に向かい日米開戦そして敗戦。あの全共闘運動からもう50年。歴史の一コマになりました。でも私の中ではあの全共闘運動というものが未だにくすぶり続けていて今更にこんなブログまでたちあげてしまいました。あの時代は良かった、今の若者はとかいうつもりもありません。なんか戦争体験を語るような感覚ですね。これからの時代を担っていく人たちに戦時下でもないあの時に自分の存在をかけて戦った人たちがいたという事を知っていて欲しいという気持ちですね。運動にほとんど関わっていない者が○○ですけど…関わっていないからこそなんです。
で本題へと行きたいのですけど、この件に関しては本人にもどう着地をするか見えていないところもあり、以前に述べたことを別の視点からおさらいをしておこうと思います。
全共闘世代の特徴として挙げられるのは情熱家・理屈屋・反権威主義・新しもの好きのくせ古い価値観を持っているなどでした。そうした性格を形成したであろう理由として全共闘世代は実質戦後民主主義の第一世代でありその人数が多世代に比べて圧倒的に多かった。そしてその親は戦争を経験しており、戦前の価値観が身体に染み込んでいるのに戦前の価値観を全否定され180度違う価値観で子供育てていかなければならない。当然迷い・不安の中で子育てだったでしょうし、戦後の食糧難の時代を経験しているだけに「子供には不自由な思いをさせたくない」という思いも強かったでしょう。そして学校の先生方もほぼ同じような状況だったと思います。昨日まで体罰中心で「天皇陛下万歳!」と言っていた先生が「今日から民主的に話し合いで解決しましょう」とくるわけです。戦前の全体主義(ファシズム)全否定すると対義語の個人主義が尊重されるわけです。よく言えば自由に、そして権威の否定は当たり前、そして大人数の同期がいる中では個人の主張を強く述べること大事であり、その理屈や議論などを通じて民主的方法で勝ち残る術を身に着けていないといけません。それらが私たちの世代の特徴を決定したのだと思います。そして全共闘世代は民主主義の理想の部分だけを純粋培養されて育ってきています。ところが現実はそう簡単に変わらないものですよね。学年が上がるに従って色んな挫折を経験し知識を身に着けてくると「現実は…」と学ぶわけです。そして一人の個人の中にも矛盾を抱えながら自分の「理想とする部分」をどこまで表現するか、手探りしながら生きている訳です。全共闘世代だってそうです。当時の時代の最先端の感性を持ちながら、一方で高倉健主演のヤクザ映画の「義理と人情」の古い価値観の世界に憧れを持つわけです。矛盾を抱えつつ生きているわけです。戦後民主主義の第一期生だった全共闘世代も学年が上がるにつれて知識も経験も増え「民主主義」って何?という場面にも沢山出会います。その現実の矛盾が一気に噴き出たのがあの68年の全共闘運動だったと考えています。あの2.26事件に立ち上がったエリート青年将校。そして幕末の志士たちみんな若いエリートです。だから今の世の中おかしいと真っ先に感じる感性を持ち、人々に先駆けて戦いを始めるわけです。全共闘にもそんな一面があります。その全共闘運動を語るときあの60年の反安保闘争とこの68年の全共闘運動とどうつながっているのか?この60年の反安保闘争は国民の間にあっただろう「もう戦争に関わるのはゴメンだ」という「声なき声に」後押しされるように全国的に広がった運動でした。(なんせ当時5歳だった安倍総理大臣が岸信介首相前で「アンポハンタイ」なんてやっていますから)当時田舎の中学生だった私は「国会への学生デモの突入で死者(樺美智子さん)が出ている。大きい騒ぎになっているな」と軽い認識でした。中学生はまだまだ子供です。大人どうしの10歳差と比べるとこの時期の10歳の差は大きいです。逆にあの全共闘運動を当時の中学生に解らせることは無理ですね。私も安保闘争は知ってはいてもその後の学生運動は全く興味の他でした。そこに降って湧いたように全共闘が登場してきた感じで衝撃を受けた記憶があります。
東大闘争と日大闘争へ
60年の安保闘争でエネルギーを使い果たした全学連が主流派と反主流派に分裂をしたのをはじめに学生運動の各派は抗争と分裂を繰り返して学生運動は衰退期に入っていった。そして64年の慶応大の授業料値上げ反対闘争を皮切りに65年早稲田大の学費値上げ反対闘争など次々に各大学で紛争が起こり、その数は全国で65校におよんだ。そしてこの一連の学園紛争と呼ばれる運動は多彩な内容と深まりを見せていた。これらの様々な要求が起きてくるのは社会が大学の大衆化を要請してきている時代に突入したということだろう。そして大学の果たすべき社会的役割とこの時代において大学生の存在理由が問われたという事だろう。これらの学園紛争の流れが東大闘争と日大闘争に収斂していくのですが…。あの時学生達だけが勝手に高揚して突っ走っていたわけではありません。少し視点を変えて当時の世界情勢を見てみると冷戦(社会主義国と資に本主義国が対立)状態はピークに達しており65年には米国は泥沼化しているベトナム戦争の切り札として北ベトナムに空爆を開始。これが逆に日本や世界の反戦運動に火をつける形なりました。またこの時期に中国では日本の学生運動に大きな影響を及ぼした。「文化大革命」が始まっています。 この時期の日本の社会状況を見ますと65年には市民運動として「べ平連」(ベトナム反戦・平和運動)が誕生、そして66年三派全学連結成した学生たちは66年成田空港建設反対闘争、67年第1次・第2次羽田闘争(佐藤首相のベトナム等の訪問阻止)、68年佐世保(原子力空母入港阻止)闘争、68年王子野戦病院建設反対と立て続けにおきる政治運動に積極的に関わっていった。一方社会運動である学園闘争もピークを迎えようとしていた。
またおさらいになりますが、この辺りの事をきちんと理解していないと全共闘運動が生まれてきた理由や私がなぜそこに拘るのかが解ってもらえないと思いますので。当時学生活動家と言われるのは大胆な言い方をすると日本共産党の下部組織と言われる民青と既存の左翼勢力を否定する新左翼と呼ばれる各セクトそのセクトにも属していないが先進的なノンセクトラジカルと呼ばれるグループにわけられます。そのうちの新左翼と呼ばれる各セクトが離散集合を繰り返しやっと66年三派全学連が結成されたのです。まだこの時は全共闘という運動体は出現していません。
今回はここまでに。なんか同じことを言っている気がしないでもないですが、全共闘一つ語るにもいろんなアプローチが必要だということに今頃気づき始めています。
今回は全共闘運動が生まれた経緯まで私なりにまとめてみました。このことは今まで散々語られ、論じられてきましたので私の拙い文よりも優れて、しかも簡潔に纏められているものを読んで頂くとして、あえてこうした形で今回採りあげるのはあの時の事を私はどうとらえていたのか?を改めて確認したいと思ったからです。
世界の大きな変革のうねりの中であの全共闘運動は生まれた。世界のそれぞれの出来事を簡潔に纏め過ぎると事の本質が見えないし、だからと言って詳しく述べるとジャングルの迷路に迷い込んでしまいます。
今から思えば事の始まりは1966年の中国の「文化大革命」の始まりからだと思います。「文化大革命」は「大躍進」政策の失敗による経済の立て直し図る走資派(鄧小平等)に対する毛沢東派の反攻、「権力奪取」の運動だったと言われています。毛沢東は「中国革命は走資派の修正主義によって失敗の危機にある。修正主義者を批判。打倒せよ」と主張。その実行部隊として紅衛兵たちが「造反有理」掲げてこれら走資派の共産党幹部や知識人を反革命分子として攻撃の対象となり、組織的、暴力的な吊し上げが横行した。その過酷な糾弾や迫害によって死者や自殺者が続出し、その数1億人ともいわれる。毛沢東の死・四人組の失脚で10年後にこの文革は終息した。そういう文革のいろんな出来事がニュースとして報道されるわけです。日本にも大きな影響を与えたはずです。
そしてもう一つはパリの5月革命と言われる出来事です。1960年代後半より、
米国のベトナム反戦運動、西ドイツ・イタリアの学生運動と連携してフランスでも学生運動がおこなわれていた。こうした状況を背景にパリ大学の学生が大学の管理強化に反発して校舎の一部を占拠。これが発端となり、5月に集会中の学生と警官隊が衝突し、カルティエ・ラタンが学生たちに占拠された。これは日本の「日大闘争」(1968年)とほぼ同時期に起きています。その事件の発端もよく似ています。このとき警官隊を使って強制的・暴力的に弾圧したことが各地の高校生や労働者怒りを呼び、ストや工場占拠などが頻発した。また大規模な組合もゼネストやデモを行うなどフランスは全土で混乱状態に陥った。その後一時的に沈静化したが、のちのドゴール大統領の退陣つながる。
ここで一度当時の学生運動の状況を大まかに整理しておきますと、当時の学生運動には三派全学連、新左翼(既成政党とは違う)、民青、そして全共闘があった。後でも触れると思いますが、全共闘はこの時期に突如出現した学生運動であることに注目して下さい。
全共闘運動を語るとき、東大闘争と日大闘争について触れないわけにはいけません。東大闘争は最後に安田講堂の落城で劇的な終わり方をしているために有名ですが、全共闘運動が如何にして始まり、最後はどうなっていったかを日大闘争を中心に私見を述べさせてもらいたいとおもいます。当時の運動の中心に居たわけでもない、片田舎の高校出身でどこにでもいる普通の大学生だった者が身の程知らずに全共闘運動を語るなんてと思われる方がいるかもしれませんし、当事者でない者の事実誤認も多々あると思いますが、あの時代の空気を知っている者の一人として自分なりの見方や何かを伝えていくことも大事だろうと思います。
東大闘争
1968年 1月29日 登録医制に反対して医学部無期限ストに突入
2月19日 春見事件(3月大量処分)
6月15日 処分に抗議する学生が安田講堂占拠―排除
6月20日 7学部が無期限ストに突入
7月 2日 安田講堂占拠。5日集会で全学共闘会議を結成
医学部不当処分の撤回など7項目の要求
10月12日 全学無期限スト突入
11月22日 「東大・日大闘争勝利全国学生総決起大会」開催
1969年 1月18日 大学側は機動隊8500人を構内に導入。学生側は約
500人が安田講堂に立てこもり激しく抵抗。35時間の
攻防戦が繰り広げられた。
日大闘争
1968年 5月 東京国税局による調査により22億円の使途不明金が発覚。
日大生の怒り爆発。
① 利潤を優先する学校当局―膨大な学生数に比べて教授陣や施設の貧弱さ(教室の定員をオーバーする授業)
② 学生の自治活動の圧殺
・集会の禁止 ビラなどの検閲制度
・当局と癒着した右翼、体育会系学生による暴力的学校支配
サークル単位で開かれ始めた学生たちの会合が次第に学部単位の抗議集会へと高まりを見せていった。
5月23日 経済学部にがく集まった約2000人の日大生による初めてのデモ
(「偉大なる200メートルデモ」)
学校側はいち早くロックアウト(学生のたち理禁止)し、体育会系の学生による集会を妨害
5月25日 約5000人が学生デモ
5月27日 全学決起集会が開かれ、①「全理事総退陣」②「経理の全面公開」③「集会の自由の承認」④「不当処分の白紙撤回」
⑤「検閲制度撤廃」のスローガンが採択され、日大全共闘が結成される。
6月11日 学生集会に大学側が雇った右翼などが乱入。200人以上負傷
これにより学生側は無期限スト突入。バリケードを築いて校舎を占拠。
9月30日 大学側が大衆団交に応じ、両国講堂で学生側3万5000人と古田
て会頭以下全理事が出席して行われ、大学側が全面屈服。確認書に
署名
10月1日 佐藤首相が「この大衆団交は集団暴力であり許せない」と発言。それを受け確認書を白紙撤回。
それ以降大学側は機動隊を導入してバリケードの撤去していく。
今回はここまでに