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11/27のツイートまとめ

社会問題
11 /28 2018
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@komochi2konbu いつも小気味のいい話拝見
11-27 23:14

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ベトナムの闘い

社会問題
11 /27 2018

ベトナム戦争とは

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 全共闘関係の話は前回で一応終わりとします。全共闘運動はたった2年間の出来事にすぎません。長い歴史の時間の中でみるとほんの一瞬の出来事です。50年たった今でも何も語れませんと言う人もいますし、逆に今だからこそあの時代を知っている人はそのことを語る責任があるという人もいます。50年後の今でも議論がされていて未だあの時代の出来事を現代史の中でどう位置付けるか結論めいた事はでていないと言います。また私にしても東大安田講堂の攻防戦を筆頭に世間の耳目を集める事件が集中して起きたあの時代を歴史ではなく、リアルタイムで同じ世代の若者たちの行動や出来事を見てその行動に共感したり、またその発言に反発を覚えたりと同じ時代の空気を肌で感じたものしか分かり合えない微妙なニュアンスの違いやその時代が持つ感覚わかるはずだと思っている(例えば新左翼〈注〉のセクト「赤軍派」が坂道を転がり落ちていく様に最後にテロリスト集団の「連合赤軍」になり果てるその過程は定石通りのコースであのような結果になるしかなかった。)同世代の者でも深い霧に覆われていて部分は見えているのだが、全体像が見えなくて「ナゼだ」と自分には納得できない出来事が結構あり、そのモヤモヤとしてわからない部分を自分で少しでもスッキリさせたくてこんな事を始めました。

1968年頃は今振り返ると現代史的に見てターニングポイントとなった年であった。と言う認識が諸国ででは定着しつつあるようです。この1968年頃の世界の出来事をもう1度確認してみると、アメリカではキング牧師を中心とした黒人による人種差別撤廃闘争が活発化していく中で反戦の声をあげ、それが学生運動や広範な人々の反戦集会と繋がりベトナム反戦運動は大きな盛りあがりを見せていた。そのキング牧師の暗殺事件も起きている。フランスでも後に「5月革命」と呼ばれた運動の始まりなったとされる学生の叛乱が起きている。社会主義国でもソ連(1922年から1991年まで存在した国家「ソビエト社会主義共和国連邦」世界初の社会主義国として誕生)に批判的なチェコで「プラハの春」と呼ばれた民主化運動が起きている。ブラジルでは反政府運動、メキシコでは学生運動、中国の「文化大革命」、日本は「全共闘運動」・「ベトナム反戦運動」と現体制の変革を求める動きが起きている。

なぜこの時期に申し合わせたかのように変革を求める運動が起きたのか?

フランスの「5月革命」や日本の「全共闘運動」などの変革を求める運動には「人々の要求や願いに答えようとしない現体制への不満が地下の奥深くのマグマに溜めこまれ、臨界点に達している。」そこにそのマグマを爆発させる出来事が起き、一気に拡大する。

1968年のこの世界の運動をリンクさせたのが「ベトナム反戦運動」ではなかったのかと考えている。

ある人曰く同時代の人には何も言わなくてもその微妙な違いは理解できるが、後の世代にきちんと伝わっていない。例えば60年安保闘争の全学連と68年の全共闘運動の違い。そこをきちんと理解してないと結論は全く違ってくる。にも関わらず…。

という事でベトナム戦争を語るには戦後の東西冷戦から始めたいと思う。

第2次大戦前に植民地であった多くの地域が独立宣言をして新しい国造りをし始めた。(1945年ベトナム民主共和国 1946年フィリピン インド パキスタン 1948年ビルマ連邦〈現ミャンマー〉 大韓民国 朝鮮民主主義人民共和国 1949年インドネシア 中華人民共和国)その時多くの社会主義国家が誕生した。そしてソ連を中心とするグループと資本主義のアメリカを中心にしたグループに分かれて対立する構図が出来上がった。

 

そして1950年にはソ連や中国の支援を受けた北朝鮮が大韓民国へ突如侵略を開始し、朝鮮戦争が勃発し実質的な戦闘は1953年まで続いた。(「朝鮮休戦協定」締結 現在も休戦しているだけで戦闘状態にある)                                 フランス領インドシナではベトナム民主共和国が独立宣言をしたがフランスはこれを認めず、1946年第1次インドシナ戦争が勃発。1954年にフランスが敗北したため、ベトナムは独立を果たすが、アメリカは共産主義の拡大を恐れ、ジュネーブ協定によって北緯17度で南部を分割し、アメリカが支援する軍事政権=ベトナム共和国を建国(1955年)した。ところがこの政権のジエム大統領一族による独裁化と圧政に南ベトナムの国民の反発を受け、反政府勢力が力をつけ内乱状態に突入していく。そして1959年北ベトナムは南ベトナムの武力解放を決定。1960年南ベトナム解放民族戦線が樹立され、本格的・大規模な内戦状態になる。
この後アメリカが本格的に介入してくるのですが、その時の話も結構な量になると思われますので今回はここまでで


〈注〉新左翼 マルクスレーニン主義では大衆や革命を指導する前衛となる党がすべてを指導する。ために前衛党は無謬な存在でなけれならない。日本では共産党がその位置になるのだが、それを否定して我々が前衛党であると宣言した党派

質問状

社会問題
11 /18 2018

4、全共闘運動への質問状
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質問1、日本は高度成長期に入りこれから少し豊かで自由な生活ができそうだと実感しはじめた時代の学生達の叛乱。それまでは革命は貧困が産み出す様々な様相(独裁体制等)を一挙に覆し新しい社会を形成しようとする行為であるとするなら豊かな社会では革命は起こりえないのに、1968年にはフランスでも学生たちの叛乱が発火点になり、後に「5月革命」と称される全国民を巻き込んだ運動になっている。これは単なる偶然の一致なのか、意味のある共振現象を起こしたのか。

 

「私の見解」 ここは抽象的な言い方をするほど分かりやすくなると思いますのでそれで言うと「貧困からの脱出」と「平和な社会の建設」は人類共通の課題です。まず物質的な貧困の克服のために経済の発展が求められます。その経済の発展と共に豊かさも手に入れる訳ですが、経済発展に伴う歪みとして公害などが出てきます。日本では丁度この時ミナマタから始まる4大公害問題が社会的に注目を集めていた時期です。貧困から抜け出て生活にゆとりが出来ると人は精神的な豊かさを追求し始めます。個の成長過程では20歳頃が「自由とは何か」といったような抽象的な事も含めて色々と考える時期です。日本社会は戦後の混乱期の貧困を乗り越え一息ついて、周囲を見渡すと負の遺産である「公害」が目に入る。否が応でも「豊かさとは」と自問せざるを得ない。そして団塊の世代は20歳。親の世代が頑張って築き上げた戦後の時代の結果がこれか。これからの将来私たちはどう生きていけば良いのか。という問いかけの運動ではないでしょうか。だから戦後の民主主義

を含めて戦後を全否定することが必要となる。その批判の最右翼にいるのに自分がその批判や否定の対象になるはずがないと考えていて、周りの空気の変化を読もうともしなかったのが東大の当局者と日大の古田会頭です。それが事件を悪化させました。

質問2 どんな現象であれそれが出現する「因果関係」というものがあり新左翼と呼ばれる各セクトが既成政党である共産党を否定する形で生まれた過程やそのために過激的であるのも説明がつくのですが、この全共闘運動は前段の予兆や兆候が無くまさに突然出現しています。(寡聞にして私が単に知らないだけかも知りません)

「私の見解」私たちの世代はあらゆる「権威」を否定し、組織による束縛を嫌うというなんかどこかのドラマのナレーションに出てくるような性格がある。そのことから既成政党の権威を否定し、各セクトの束縛を嫌い第3の道が自然発生的に生まれたと解釈するしかないようです。ここで急に話を変えるようですが…「全共闘運動」の話をしてきた私のイメージは「全共闘運動」は月光仮面」である。若い人達は全く知らないでしょうが当時の子供たちを夢中にさせたヒーロー者の元祖でテーマソングをこの歳でも覚えています。川内康範作詞の出だしは「どこの誰かは知らないけれど、誰もがみんな知っている。」で始まり、「疾風のように現れて疾風のように去ってゆく」「月光仮面は誰でしょう」

私の中では「全共闘」は何者かをいつも問い続けていたと思います。「どこの誰かは…で始まり、全共闘は何者でしょう」というモヤモヤ感があってどこかでスッキリと納得したい自分がいるのですが中々回答が見つかりません。

質問3 「疾風のように」突然に現れた全共闘運動は燎原の火の如くたちまち全国に広がりました。(これも全共闘を巡るナゼのひとつ。各セクトが組織の全力をあげても出来なかった自分たちの運動を全国に広めることをあっさり成功させてしまう)なのに実質2年ぐらいで運動は急に終わり告げる。「疾風の様に去ってゆく」何故。その当時の流行現象の一つ過ぎなかったのか。

「私の見解」 全共闘というのは学校の状況について同じ共通認識を持つ有志が集まり宣言すれば全共闘を名乗りあげる事が出来る点だ。組織の束縛を嫌い何よりも自由を最優先する私たちの世代のノンセクトラジカルな学生には自分の自由意思で運動にすぐ参加出来て行動できるのは魅力的であった。この自由とは逆に言えばいい加減であり、誰も責任を負わない体制でもあるわけです。運動が高揚しているときはそれいけとお祭り騒ぎになるのですが、守勢にまわると脆い。その点組織は組織の基盤となる思想があるのですから強い。

問4 「大衆団交」「全員参加の直接民主主義」という新しい風を起こしながらも政治運動としては未熟すぎるし、最終目的が何かはっきりしていない。東大闘争は「帝国大学解体」を叫ぶがその後のビジョンを示していない。日大闘争も然り。そのため次の戦略や戦術が立てられず目的が「バリ・ストをすること」に矮小化されてしまった。そしてこれだけ全国に広まった運動なのに継続されることも無く、現在に繋がる何を残したのか。ナゼ運動の思想や方法論などが継続されなかったのか。

「私の見解」 私も今だからこんな偉そうなことを言いますが、20歳そこそこ若者にそこまで要求するのは酷だろう。これが全共闘運動の限界だったのだろう。私としては「大衆団交」や「直接参加の民主主義」」が後2年ぐらい続いてこの方式が日本社会に認知されていたら今の日本よりはもう少しましな社会が出現していただろう。そのことを敏感に感じとったのが権力側だった。法をつくり、警察の警備力を向上させ一気に学生達を潰しにかかってきた。それに対して学生たちは初めから権力に玉砕するつもりだったのではないか。そこに若者たち特有の美学があって敢えて負けると解っていても闘ったのではないか。あのエリート集団の東大生が東大闘争で権力側に勝てると予想していたとは思えません。また当時高倉健さん主演のヤクザ映画が若者の支持を得ていました。吉田松陰の「かくすれば、かくなると知りながら、已むに已まれぬ大和魂」という心境だったのではないか。ここで派手に負けること=全共闘の敗北に意義を見出し、運動の流れの中で一点での対権力の戦いではなく、具体的で局所的な部分で国家と対峙する戦略に切り替わっていったのではないか。あるものは「エコロジー運動」へ、「マイノリティ運動」「フェミニズム運動」へと多様かつ継続できる運動に自然に切り替わっていったのではないか。。


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全共闘運動の敗北

社会問題
11 /12 2018

3 全共闘運動の始まりから敗北まで

 

 1968年頃既成のどの組織にも属さない(ノンセクト)学生達が学校の諸問題について闘うための組織が各大学で結成されていった。そして東大闘争が特攻隊の様に散った事が逆に全共闘運動が一気に各地に拡散していくきっかけになる。そして全共闘運動のピーク時には大学の8割が闘争状態になるまで拡大した。

全共闘の最大の特徴は学校の状況に不満を持つ者が集まり闘うことの共通認識を確認すればそれで全共闘を名乗りあげる事が出来る事だった。まず核となる先進的な集団があり、そこに自分の自由意思で参加する。だから個人の意思が最高決議機関として位置づけされることになり、執行部も独断専行は許されない大衆主体運動とも呼ぶべき運動であった。それはあらゆる面でそれまでの権威を総て否定することでもあり、それ以前の学生運動には見られなかった。高名な権威者であろうと社会的地位の上級者であろうと糾弾するいうスタイルが確立されていく。(そういう学生の変化は当時世界的に見られたという)またそれは左翼の労働組合や新左翼のセクトの組織も否定することも含んでおり、それまでの学生運動の概念とは全く質の異なる、新左翼超える超左翼と言っていい学生の叛乱。私なんかはそこに強い衝撃を受け、またすごく新鮮さを感じました。私たちの世代は組織などの束縛から自由でいたいという願望を強く持っている世代だと思います。(闘争に参加した日大生は「私たちの社会は自由が保障されているように見えて常に行列に並ぶようにと無言の圧力が働く社会。その行列から少し外れた私は全共闘になるしかなかった。」とつぶやいています。またこの当時の若者文化として現れる形は違いますが既成の価値観や制度に反発し社会からドロップアウトする生活を送るヒッピー文化も流行現象としてありました)そして戦後の学生運動の核となってきた自治会の形式的民主主義も社会の行列の一つに過ぎない制度であるとして支持をされなくなった。

 

そんな状況の中、各大学で諸問題が発生した時に先進的な学生たちが闘争委員会を立ち上げ、それを核にして周りの者達が自分の自由意思でその運動に加わるというスタイルが自然発生的に生まれてきた。既成のものではない自分たちが新しい共同体を創るという高揚感(エネルギー)を結集して全学的な闘争組織に集約されていく。新しい歴史は常に前の歴史を否定する形で生まれてくる。共産党等の

既成政党を否定する新左翼が生まれたように、新左翼を乗り越える形として全共闘は生まれた。既成の組織の理念や論理から逸雑し間接民主主義を否定し、それぞれが自分の意思で直接参加し行動するというスタイルは「以前の既成政党などのスタイルではデモなどの抗議行動もすべて予定調和の範囲でしか動けない。そして大衆を総動員することはできなかったこと」をあっさり乗り越えてしまうのである。それぞれが自分の意思で闘争に加わる方式だと運動が盛り上がれば参加者はどんどん増え、執行部が把握できない状態にまでなる。最前線では先鋭化した集団の暴走も起きる。日大闘争はまさにそういう運動だったと思う。「大衆団交」の時には学生数が日大生8万人のうち3万5千人が参加。これは国を二分したと言われた60年安保闘争時の国会突入デモ人数13万人の4分の1の人数が一大学の集会に参加するのである。このように既成政党の指導から独立し、新左翼系の政治闘争に距離を置き、第3の道「大衆運動」の新たな水平線を切り開いた全共闘運動だが国家権力が全面出てくると初めて闘争した経験しか持たない集団の弱点である「戦術」や「戦略」や「未来への展望示す」など面が短期間に運動が急成長したために未熟なまま前面に出てきた国家権力と戦う闘争方法を確立できないまま(今までの戦い方ゲバ棒にヘルメット、バリスト)戦うしかなく(蟷螂の斧状態)次々制圧されていった・。また大学臨時措置法の適用、全共闘がセクト色が強くなった事などで一般学生の支持を失い急速に力を失った。その後この全共闘の運動形態を引き継ぐ、あるいは全共闘を超えるような運動体も現れることも無く実質2年でその幕を降ろしてしまう。

あれだけ勢いがあった全共闘が国家権力の介入であっけなく敗北。衰退していくのを目の当たりにした新左翼の各セクトは「巨大な国家にどう立ち向かうのか」その戦略やその元となる理論の対立などからセクト間で、あるいはセクト内の身内同士で内ゲバを繰り返し、分裂・衰退していく。そういう新左翼の動きの中に「国家の暴力装置に立ち向かうにはこちらも武装闘争路線=「早急に銃や爆弾で武装蜂起しなければならない」とその行動はますます過激化、武闘化                                                             路線を進んでいったのがブントから派生した赤軍派(1969年9月結成)であった。その2か月後,武装化への訓練中の大菩薩峠で大量の逮捕者を出し大きなダメージを受ける。その失敗から革命のため「国際根拠地」をつくり、そこで軍事訓練を受け、日本で「武装蜂起」するという考えに基づき1970年3月31日航機「よど号」をハイジャックして北朝鮮に渡航。赤軍派の残ったメンバーは新たな国際拠点をレバノンに求めた。重信房子を中心とするこのグループは「日本赤軍」と呼ばれ数々のテロ事件を引き起こしていく。まず1972年5月「テルアビブ空港銃乱射事件」(26人死亡 無差別テロ)1975年8月クアラルンプール事件(アメリカ大使館、スウェーデン大使館占拠。日本赤軍のメンバーの解放要求・日本政府要求に応じる。)1977年9月ダッカ事件(飛行機を乗っ取り人質と赤軍派メンバーの解放要求・日本政府要求に応じる。)

国内に残った最後の赤軍派は京浜安保共闘と連合赤軍を結成1972年浅間山荘事件(浅間山荘に人質をとり立てこもる。警官隊と銃撃戦)この事件の前の軍事訓練中に「総括」と称してリンチ殺人で仲間12人を殺害)

こうして見てくると全共闘運動の敗北後の運動は学生運動の範疇を超えるものとなってしまった。連合赤軍のリンチ殺人事件は過激な新左翼にさえ嫌悪感持たせるものであり、日本赤軍はもう完全にテロリスト集団になってしまった。スタートの第一歩を少し間違っただけで人間はこうも堕ちるものなのかと思う。彼らと同じ時代を現在進行形で生きて来たものとしてはやるせない気持ちになる。こうして長い歴史を持つ学生運動は1970年代末にはほぼ消滅状態になっている。学生運動の復活はあるのか。

全共闘運動のまとめ

社会問題
11 /05 2018
 

全共闘運動のまとめ
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1、  全共闘運動の定義

 まず簡単に戦後の左翼運動の歴史を振り返ってみるとアメリカの日本民主化政策もあり戦後の日本の混乱期には生活の向上を求めて組合運動が強く、それを支援する社会党などの政党が左翼運動をけん引していた。(三井争議など)その後1960年代ごろから先進国において既成左翼政党の運動を否定しより急進的な革命を志向する勢力=新左翼の勢力(各セクト)が出現した。そして1968年にそのどちらにも属さない新しい運動体としてノンセクトラジカルを中心とする全共闘運動が誕生する。基本的には思想・信条・立場に関係なく個人の意思で共通の目標(古田体制打倒)に向かって共に闘う連合体。(学生たちが「大衆団交」を執拗に求めた民主主義とは何かという概念=個人の意思が最優先されるべきとする考えがある)

 

2、  東大闘争と日大闘争の共通点と相違点

(1)共通点

  建物の占拠とバリケード・ストライキという実力行使を伴う抗議行動

デモなどで意思表示をする、あるいは話し合いなどでは問題は解決されない。自分たちの要求を通すには建物の占拠などの実力行使が必要不可欠(新左翼系三派全学連が主張)

  大衆団交を要求

根本的な取り決めをするときは全ての学生と理事は同等の立場にあり、全学生と全理事が立ち合い、公開の場で直接的に行うのが民主主義の大原則=個人の意見が述べられる場の保障・そのための情報は全て公開されなければならない。今までだと交渉事は双方から選ばれた代表団交渉し、その合意事項を持ち帰り大会で報告了承を得るというスタイルでした。それをしてはならないということです。それは学生側の代表者にも要求されました。

  東大当局者と古田体制

一見この二つはまるで正反対の体制のように見えますが、両者東大当局者(独善的・権威主義者)と古田体制(教育で利潤追求)は共に象牙の塔にこもり、社会の動き(60年安保闘争等)に関わろうともせず、戦前の価値観や行動原理を残したまま戦後20年をやり過ごしてきた。そして戦後民主主義教育の第1期生で「権威を否定」する20歳の団塊の世代と出会うことになる。

 

(2)相違点

①東大当局者と古田体制

実質的な闘争の始まりは東大の場合、学生の不当処分に抗議し て学生が安田講堂占拠。大学当局が機動隊の導入でこれを排除。この大学の行為は「大学の自治の自由」を放棄したと抗議して全校の共感(「全共闘と話し合いを拒否したままなぜ機動隊を導入した」)を得たからでした。

その大学の自治さえ認めていない日大では大学当局が抗議集会を妨害するための暴力的な弾圧があるなかでそれを撥ね返し、『日大初の200mデモ』を成功させてからでした。

そのため同じ様に全共闘を名乗り、システムも似た組織でありながら東大闘争は抽象的な思想闘争の側面が強くなり、一方学生の自治さえ認めていない日大闘争の方はまず集会の自由を認めさせる為に連日抗議集会を持つなどの具体的な行動が求められ、その集会をする度に周りにいる者を巻き込んで、さらに大きな集会へと盛りあがり見せていった。

  そして東大闘争は「大学の自治」「学問・研究の自由」の名のもとに営々と続いている東京大学の組織の腐敗・それに守られてきた大学当局者の精神的堕落等を告発する戦いとなり「東京帝国大学解体」のスローガンが掲げられる。そして東大当局者と同じ様に自分も悪しきエリート意識・権威主義に安易に埋没してきたのではないかと「自己否定」を絶えずしなければならないという結論にまで行きつく。

  闘争の長期化に伴い運動がより先鋭的なり、離脱するあるいは反対する者も出始めてくる。そこに政府の介入があり、運動の先鋭化集団が占拠する安田講堂の解除に機動隊導入により運動は終焉。

  私はこの東大全共闘の行動を幕末の下級武士たちが封建制度の下にいろんな屈辱に耐えていたところにその封建制度が揺らぎ始め、「尊王攘夷」という旗が掲げられ才能のある若者たちがそれぞれの思惑で動き始め、その動きが複雑に絡み合って早すぎる天才の死、早すぎた武装蜂起、藩改革など色んな群像劇が見られます。「大学解体」をスローガンに掲げて最後は安田講堂で機動隊と激しい攻防戦繰り広げた東大全共闘は幕末のどの辺に位置付けるべきなのか?と考えたりします。

  一方の日大闘争は23日に歴史的「200mデモ」後の連日持たれる各部の抗議集会に今まで政治や闘争に無関心だったノンポリ学生を巻き込みながら運動は盛り上がりつつあった。そして6月11日事態は一気に動く。抗議集会を行おうとする学生達に暴力的妨害をする大学側と激しい攻防戦が繰り広げられ、機動隊も出動する中、建物の占拠・バリケード構築・ストライキ決議・5項目の闘争スローガン採択して長期間のバリケード・ストライキに突入していく。

  長期間のバリケード・ストライキの生活や対大学との攻防戦を柔軟な姿勢で乗り切り、9月30日に大衆団交を実現させ5項目要求認めさせるも翌日の政府の介入発言により、理事側は交渉の誓約書を白紙撤回する。これで日大闘争は事実上終結する。

  日大闘争は元々の出発点からして自然発生的に運動体が産れているし、革命を目指す政治運動では無く、待遇改善を求める社会運動の一つであったと思っています。だからこちらは劇画作家白戸三平さんの「カムイ伝」で描かれている農民のイメージがあります。「カムイ伝」とは1964年スタートの三部作で現在二部まで27巻まで完成している。江戸初期の架空の藩を舞台として最下層の身分の非人(カムイ)、農民(庄助)、支配者として武士(竜之進)三者三様の若者を中心に物語は展開していく。ある時は身分制度や差別の問題が描かれたり、農民に対する支配階級の武士の苛酷な弾圧、それに対抗する農民の知恵と工夫で

したたかに生きていく姿が描かれている。

大学の管理と右翼支配のもと、下を向いていた日大生が自己を主張し、はじめて「自己肯定」した、そういうたたかいだった。そうだと思います。その時に湧いてきたイメージがこれとは正反対の立場にいた戦没学生は手記に「私は自由主義者です。その理論によれば日本は負けるでしょう。それが解っていても私は愛する祖国のために特攻隊員という誇りをもって明日飛び立っていきます」と書いています。これもまた一つの「自己肯定」でしょうね。

今回はここまでにしておきます。次回はやっと「全共闘の敗北と総括」に入れそうです・


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グッチー

昨年古希を迎えました。人生も終盤。学生時代の言葉で言えばそろそろ人生の「総括」と何か新しい自分を発見するためブログを始めました