全共闘 誕生
社会問題今回は全共闘運動が生まれた経緯まで私なりにまとめてみました。このことは今まで散々語られ、論じられてきましたので私の拙い文よりも優れて、しかも簡潔に纏められているものを読んで頂くとして、あえてこうした形で今回採りあげるのはあの時の事を私はどうとらえていたのか?を改めて確認したいと思ったからです。
世界の大きな変革のうねりの中であの全共闘運動は生まれた。世界のそれぞれの出来事を簡潔に纏め過ぎると事の本質が見えないし、だからと言って詳しく述べるとジャングルの迷路に迷い込んでしまいます。
今から思えば事の始まりは1966年の中国の「文化大革命」の始まりからだと思います。「文化大革命」は「大躍進」政策の失敗による経済の立て直し図る走資派(鄧小平等)に対する毛沢東派の反攻、「権力奪取」の運動だったと言われています。毛沢東は「中国革命は走資派の修正主義によって失敗の危機にある。修正主義者を批判。打倒せよ」と主張。その実行部隊として紅衛兵たちが「造反有理」掲げてこれら走資派の共産党幹部や知識人を反革命分子として攻撃の対象となり、組織的、暴力的な吊し上げが横行した。その過酷な糾弾や迫害によって死者や自殺者が続出し、その数1億人ともいわれる。毛沢東の死・四人組の失脚で10年後にこの文革は終息した。そういう文革のいろんな出来事がニュースとして報道されるわけです。日本にも大きな影響を与えたはずです。
そしてもう一つはパリの5月革命と言われる出来事です。1960年代後半より、
米国のベトナム反戦運動、西ドイツ・イタリアの学生運動と連携してフランスでも学生運動がおこなわれていた。こうした状況を背景にパリ大学の学生が大学の管理強化に反発して校舎の一部を占拠。これが発端となり、5月に集会中の学生と警官隊が衝突し、カルティエ・ラタンが学生たちに占拠された。これは日本の「日大闘争」(1968年)とほぼ同時期に起きています。その事件の発端もよく似ています。このとき警官隊を使って強制的・暴力的に弾圧したことが各地の高校生や労働者怒りを呼び、ストや工場占拠などが頻発した。また大規模な組合もゼネストやデモを行うなどフランスは全土で混乱状態に陥った。その後一時的に沈静化したが、のちのドゴール大統領の退陣つながる。
ここで一度当時の学生運動の状況を大まかに整理しておきますと、当時の学生運動には三派全学連、新左翼(既成政党とは違う)、民青、そして全共闘があった。後でも触れると思いますが、全共闘はこの時期に突如出現した学生運動であることに注目して下さい。
全共闘運動を語るとき、東大闘争と日大闘争について触れないわけにはいけません。東大闘争は最後に安田講堂の落城で劇的な終わり方をしているために有名ですが、全共闘運動が如何にして始まり、最後はどうなっていったかを日大闘争を中心に私見を述べさせてもらいたいとおもいます。当時の運動の中心に居たわけでもない、片田舎の高校出身でどこにでもいる普通の大学生だった者が身の程知らずに全共闘運動を語るなんてと思われる方がいるかもしれませんし、当事者でない者の事実誤認も多々あると思いますが、あの時代の空気を知っている者の一人として自分なりの見方や何かを伝えていくことも大事だろうと思います。
東大闘争
1968年 1月29日 登録医制に反対して医学部無期限ストに突入
2月19日 春見事件(3月大量処分)
6月15日 処分に抗議する学生が安田講堂占拠―排除
6月20日 7学部が無期限ストに突入
7月 2日 安田講堂占拠。5日集会で全学共闘会議を結成
医学部不当処分の撤回など7項目の要求
10月12日 全学無期限スト突入
11月22日 「東大・日大闘争勝利全国学生総決起大会」開催
1969年 1月18日 大学側は機動隊8500人を構内に導入。学生側は約
500人が安田講堂に立てこもり激しく抵抗。35時間の
攻防戦が繰り広げられた。
日大闘争
1968年 5月 東京国税局による調査により22億円の使途不明金が発覚。
日大生の怒り爆発。
① 利潤を優先する学校当局―膨大な学生数に比べて教授陣や施設の貧弱さ(教室の定員をオーバーする授業)
② 学生の自治活動の圧殺
・集会の禁止 ビラなどの検閲制度
・当局と癒着した右翼、体育会系学生による暴力的学校支配
サークル単位で開かれ始めた学生たちの会合が次第に学部単位の抗議集会へと高まりを見せていった。
5月23日 経済学部にがく集まった約2000人の日大生による初めてのデモ
(「偉大なる200メートルデモ」)
学校側はいち早くロックアウト(学生のたち理禁止)し、体育会系の学生による集会を妨害
5月25日 約5000人が学生デモ
5月27日 全学決起集会が開かれ、①「全理事総退陣」②「経理の全面公開」③「集会の自由の承認」④「不当処分の白紙撤回」
⑤「検閲制度撤廃」のスローガンが採択され、日大全共闘が結成される。
6月11日 学生集会に大学側が雇った右翼などが乱入。200人以上負傷
これにより学生側は無期限スト突入。バリケードを築いて校舎を占拠。
9月30日 大学側が大衆団交に応じ、両国講堂で学生側3万5000人と古田
て会頭以下全理事が出席して行われ、大学側が全面屈服。確認書に
署名
10月1日 佐藤首相が「この大衆団交は集団暴力であり許せない」と発言。それを受け確認書を白紙撤回。
それ以降大学側は機動隊を導入してバリケードの撤去していく。
今回はここまでに
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