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東大闘争へ

社会問題
10 /11 2018

はじめに


前回日大闘争を中心にと言っていましたが、色々と調べていくうちに私が語りたいと思うことにやっぱり東大闘争と日大闘争の両方を語らないとあの時しかなかった混然とした熱気みたいなものが上手く語れないと思うようになりました。全共闘を語るには私には荷が重かったかと思い始めていますが…。まあ私なりにやってみます。

幕末から明治維新にかけて頃が典型的な例ですけど歴史には大きなうねり・流れがあってその人がどの位置にいたかによって後の歴史が変わっただろうなと思う場面がいくつもありますし、一人有能な人物が倒れてもすぐその後継者が現れ(伊藤博文なんかは維新運動の初期の頃は端役過ぎなかった)幕末から一気に近代国家にまで仕上げてしまう。一方日本の現状に、将来に危機感を持った青年将校たちが起こした2・26事件は青年将校たちの思いとは逆方向に向かい日米開戦そして敗戦。あの全共闘運動からもう50年。歴史の一コマになりました。でも私の中ではあの全共闘運動というものが未だにくすぶり続けていて今更にこんなブログまでたちあげてしまいました。あの時代は良かった、今の若者はとかいうつもりもありません。なんか戦争体験を語るような感覚ですね。これからの時代を担っていく人たちに戦時下でもないあの時に自分の存在をかけて戦った人たちがいたという事を知っていて欲しいという気持ちですね。運動にほとんど関わっていない者が○○ですけど…関わっていないからこそなんです。

 

で本題へと行きたいのですけど、この件に関しては本人にもどう着地をするか見えていないところもあり、以前に述べたことを別の視点からおさらいをしておこうと思います。

全共闘世代の特徴として挙げられるのは情熱家・理屈屋・反権威主義・新しもの好きのくせ古い価値観を持っているなどでした。そうした性格を形成したであろう理由として全共闘世代は実質戦後民主主義の第一世代でありその人数が多世代に比べて圧倒的に多かった。そしてその親は戦争を経験しており、戦前の価値観が身体に染み込んでいるのに戦前の価値観を全否定され180度違う価値観で子供育てていかなければならない。当然迷い・不安の中で子育てだったでしょうし、戦後の食糧難の時代を経験しているだけに「子供には不自由な思いをさせたくない」という思いも強かったでしょう。そして学校の先生方もほぼ同じような状況だったと思います。昨日まで体罰中心で「天皇陛下万歳!」と言っていた先生が「今日から民主的に話し合いで解決しましょう」とくるわけです。戦前の全体主義(ファシズム)全否定すると対義語の個人主義が尊重されるわけです。よく言えば自由に、そして権威の否定は当たり前、そして大人数の同期がいる中では個人の主張を強く述べること大事であり、その理屈や議論などを通じて民主的方法で勝ち残る術を身に着けていないといけません。それらが私たちの世代の特徴を決定したのだと思います。そして全共闘世代は民主主義の理想の部分だけを純粋培養されて育ってきています。ところが現実はそう簡単に変わらないものですよね。学年が上がるに従って色んな挫折を経験し知識を身に着けてくると「現実は…」と学ぶわけです。そして一人の個人の中にも矛盾を抱えながら自分の「理想とする部分」をどこまで表現するか、手探りしながら生きている訳です。全共闘世代だってそうです。当時の時代の最先端の感性を持ちながら、一方で高倉健主演のヤクザ映画の「義理と人情」の古い価値観の世界に憧れを持つわけです。矛盾を抱えつつ生きているわけです。戦後民主主義の第一期生だった全共闘世代も学年が上がるにつれて知識も経験も増え「民主主義」って何?という場面にも沢山出会います。その現実の矛盾が一気に噴き出たのがあの68年の全共闘運動だったと考えています。あの2.26事件に立ち上がったエリート青年将校。そして幕末の志士たちみんな若いエリートです。だから今の世の中おかしいと真っ先に感じる感性を持ち、人々に先駆けて戦いを始めるわけです。全共闘にもそんな一面があります。その全共闘運動を語るときあの60年の反安保闘争とこの68年の全共闘運動とどうつながっているのか?この60年の反安保闘争は国民の間にあっただろう「もう戦争に関わるのはゴメンだ」という「声なき声に」後押しされるように全国的に広がった運動でした。(なんせ当時5歳だった安倍総理大臣が岸信介首相前で「アンポハンタイ」なんてやっていますから)当時田舎の中学生だった私は「国会への学生デモの突入で死者(樺美智子さん)が出ている。大きい騒ぎになっているな」と軽い認識でした。中学生はまだまだ子供です。大人どうしの10歳差と比べるとこの時期の10歳の差は大きいです。逆にあの全共闘運動を当時の中学生に解らせることは無理ですね。私も安保闘争は知ってはいてもその後の学生運動は全く興味の他でした。そこに降って湧いたように全共闘が登場してきた感じで衝撃を受けた記憶があります。

 

東大闘争と日大闘争へ

60年の安保闘争でエネルギーを使い果たした全学連が主流派と反主流派に分裂をしたのをはじめに学生運動の各派は抗争と分裂を繰り返して学生運動は衰退期に入っていった。そして64年の慶応大の授業料値上げ反対闘争を皮切りに65年早稲田大の学費値上げ反対闘争など次々に各大学で紛争が起こり、その数は全国で65校におよんだ。そしてこの一連の学園紛争と呼ばれる運動は多彩な内容と深まりを見せていた。これらの様々な要求が起きてくるのは社会が大学の大衆化を要請してきている時代に突入したということだろう。そして大学の果たすべき社会的役割とこの時代において大学生の存在理由が問われたという事だろう。これらの学園紛争の流れが東大闘争と日大闘争に収斂していくのですが…。あの時学生達だけが勝手に高揚して突っ走っていたわけではありません。少し視点を変えて当時の世界情勢を見てみると冷戦(社会主義国と資に本主義国が対立)状態はピークに達しており65年には米国は泥沼化しているベトナム戦争の切り札として北ベトナムに空爆を開始。これが逆に日本や世界の反戦運動に火をつける形なりました。またこの時期に中国では日本の学生運動に大きな影響を及ぼした。「文化大革命」が始まっています。  この時期の日本の社会状況を見ますと65年には市民運動として「べ平連」(ベトナム反戦・平和運動)が誕生、そして66年三派全学連結成した学生たちは66年成田空港建設反対闘争、67年第1次・第2次羽田闘争(佐藤首相のベトナム等の訪問阻止)、68年佐世保(原子力空母入港阻止)闘争、68年王子野戦病院建設反対と立て続けにおきる政治運動に積極的に関わっていった。一方社会運動である学園闘争もピークを迎えようとしていた。

またおさらいになりますが、この辺りの事をきちんと理解していないと全共闘運動が生まれてきた理由や私がなぜそこに拘るのかが解ってもらえないと思いますので。当時学生活動家と言われるのは大胆な言い方をすると日本共産党の下部組織と言われる民青と既存の左翼勢力を否定する新左翼と呼ばれる各セクトそのセクトにも属していないが先進的なノンセクトラジカルと呼ばれるグループにわけられます。そのうちの新左翼と呼ばれる各セクトが離散集合を繰り返しやっと66年三派全学連が結成されたのです。まだこの時は全共闘という運動体は出現していません。


今回はここまでに。なんか同じことを言っている気がしないでもないですが、全共闘一つ語るにもいろんなアプローチが必要だということに今頃気づき始めています。

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グッチー

昨年古希を迎えました。人生も終盤。学生時代の言葉で言えばそろそろ人生の「総括」と何か新しい自分を発見するためブログを始めました