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年表

社会問題
10 /28 2018

東大闘争年表

1968

1月29 東大医学部の学生がインターン制度に代わる登録医制度に反対し、無期限ストに突入。

3月12 医学部は、2月19の医局長缶詰事件で17人の処分を発表。

6月15 医学部全闘委の学生が安田講堂を占拠。

6月17 大河内総長の要請で、警視庁機動隊1200人が同大学構内に出動し、学生らは退去。

6月20 警察導入に抗議して、法学部を除く9学部が一斉に一日スト。

6月26 東大文学部無期限ストに突入。

6月28 大河内一男総長出席の安田講堂での「総長会見」。約3000人が参加し、溢れた2000人もの学生はテレビ中継した別の教室集会に参加という形式を採った。

7月2 反日共・新左翼系の学生ら、250人が安田講堂をバリケードで封鎖

7月5 東大闘争全学共闘会議(東大全共闘)結成(全共闘議長・山本義隆)。教養学部も無期限ストに突入。

7月16 全共闘、七項目要求確認。 

8月28 全学共闘会議の学生約200人が医学部本館を占拠。

9月16 本郷構内の5学部で学生大会、学部大会を開く。

9月22 全共闘の学生約250人が医学部附属病院外科系医局・研究棟にバリケードを築き、封鎖する。

10月12 法学部無期限スト突入。開校以来初の10学部「無期限スト」

11月1 東大評議会で大河内一男総長の辞任を承認。紛争の発端となった医学部の豊川行平前医学部長、上田英雄前東大病院院長の東大教授退官を承認。10学部の当時の学部長全員も辞任。

11月4 新学部長会議で加藤一郎法学部長を学長事務取扱(代行)に選出。文学部の法文2号館で文学部学生の処分を巡る「大衆団交」が始る。

11月6 林健太郎文学部長、岩崎、堀米両評議員の3人は禁足。成瀬助教授は疲労で退場。教授側は「不法監禁」と掲示。

11月8 100時間を超え、教官有志は「基本的人権の重大な侵害。大学を無法地帯とする愚挙。」と声明を発表。35名が署名。三島由紀夫阿川弘之ら学者・文化人グループは「緊急の訴え」を出す。

11月12 林文学部長はドクターストップのため、173時間ぶりに解放。緊急入院をする。総合図書館前で全共闘と民主化行動委員会(民青系)(議長:三浦聡雄医学部生)が全学封鎖を巡り乱闘。

11月14 法学生大会、全学封鎖反対決議。

11月18 全学集会で東大当局と全共闘との予備折衝物別れとなる。

11月19 工学生大会、全学バリ封鎖反対可決。総長代行らと統一代表団準備会(日共系)との予備折衝。

11月22 「東大・日大闘争勝利全国学生総決起大会」開催。東大闘争の天王山、全学バリケード封鎖の強行の挫折。

12月29 加藤学長代行と坂田道太文相が会談、「現状のままでは入試中止。1969115日までにスト解除・授業再開の見通しが立てばその時点で再考」とすることで意見が一致した。文部省(当時)が、大学側の意向を無視し1969年度の東大入試中止を発表する。

1969

1月4 加藤総長「非常事態」宣言。

1月9 全共闘、教育・経済学部の民青を攻撃。加藤総長の要請で機動隊が大学構内に入る。

1月10 秩父宮ラグビー場7学部代表団と大学側の集会。十項目確認書作成。

1月14 駒場共闘、駒場キャンパス8本館に籠城。民青、一般学生、教官、機動隊と攻防。(21日撤収)

1月16 加藤総長が機動隊に本郷キャンパスのバリケード撤去を要請する。

1月18 封鎖解除実行(安田講堂攻防戦)。東大内での逮捕者は600名以上。学生支援のため神田・本郷界隈で神田カルチェ・ラタン闘争発生。

1月20 東大当局が入試中止を受け入れる。

 

                   

日大闘争年表 

1968

1月26日 理工学部・小野竹之助教授(本部教務部長)5000万円脱税発覚。

国税庁による税務調査の端緒となる。

4月15 東京国税局、「使途不明金20億円」を公表。以後、新聞、テレビ、週刊誌で大学当局の杜撰な運営実態や理事会での派閥の暗闘、土地取得に絡む金銭スキャンダルなどが報じられた取材で、使途不明の累計は34億円と伝えられる。

5月23 経済学部当局、他学部からの集会参加を阻止するため、急遽、学生証検査を強行。経短学生会の地下ホール集会に法学部、文理学部の学友ら70名をふくむ200名が参加。集会阻止のため動員された体育会系学生40名の妨害にも関わらず、集会は800名に膨れあがった。集会後、経短学生会は、他学部から駆けつけた学友を、無事、学外に送り出すため検問を突破。学外に待機していた学友らと合流。1200名が隊列を組み、校歌を歌いながら、白山通りではじめての街頭デモ。これがいわゆる「200mデモ」である。

5月27 文理学部では3000名が結集して大講堂前で集会。大学および学部当局を弾劾し、文理学部闘争委員会(田村正敏委員長)の結成を宣言。
法学部では三号館前で1500名の集会。法学部闘争委員会(酒井杏郎委員長)を結成。
経済学部前で、経済学部をはじめ、法学部、文理学部、商学部、芸術学部、理工学部、農獣医学部、歯学部などから5000名の学友が結集、はじめて全学総決起集会を開催。「日本大学全学共闘会議」の結成を承認。議長に秋田明大(経短学生会委員長)を選出する。
この時点での全共闘執行部はつぎの6名。
議長・秋田明大(経済四年) 副議長・矢崎薫(法四年) 書記長・田村正敏(文理四年) 組織部長・今章(法三年) 情宣部長・戸部源房(経済四年) 会計部長・中山正宏(文理四年)

6月4日 各学部で決起集会。法闘委は法三号館前、経闘委は経一号館前、文闘委は大講堂前で集会。文闘委と商闘委の学友、理工学部の学友に連帯を呼びかける。礫川公園での「六学部自治会共闘」の集会に参加していた農獣医学部の学友600名が経済学部に到着。この日の決起集会は、遠く文理学部三島校舎や郡山の工学部からも学友が参加し、10000名と最大規模の集会となった。
本部正面に経闘委、商闘委、理工、法一号館前に法闘委、文闘委、芸闘委、農獣医の学友が座込む。全共闘代表団14名、本部の細谷英夫学生部長と会見。611日の団交要求を通告。
法学部の一部学友が「全共闘は生ぬるい」として本部に突入。二階の学生部長室前で抗議集会を開く。この本部突入事件は、全共闘にとって想定外だったが、学生大衆の怒りは全共闘に戦術転換を迫り、ストライキ突入を視野に入れた闘争方針が策定される。
この日、大学当局は靖国神社に体育会系学生1000名を集めたが、組織的妨害を断念。

6月11 日本大学学生会議、全共闘を「実力で粉砕する」と声明。
経闘委、法闘委、文闘委、商闘委、芸闘委など各学部で決起集会を開く。
経済学部では、ヘルメットを被った吉田寛学部長が、地下ホールに体育会系学生250名を集めて「不逞の輩から経済学部を守れ」と訓示。
守衛が経済学部一号館正面玄関のシャッターを突然閉めはじめる。学友20名がシャッターに取りつき素手と旗竿で阻止。その時、学内に立て籠もった体育会系学生を発見、学友150名が学内になだれこむ。これを見た職員は体育会系学生を指揮して、木刀を振りかざし、無防備の学友に殴る蹴るの暴行を加えた。
さらに一号館の上階から、体育会系学生はもちろん守衛までが、集会に参加し座込んだ学友をねらって、石やコーラビンなどをつぎつぎに投げ込む。一瞬、5000名は総立ちとなったが、そこにも机、椅子、鉄製の灰皿などが見境もなく投げ落とされ、地獄絵さながらの惨状。頭蓋骨や肩甲骨を損傷した負傷者が続出する。
「やめろ!人殺し!」の怒号が乱れ飛ぶが、二階のバルコニーでは、体育会系学生がこれ見よがしに日本刀(白鞘)を振りまわし威嚇。この間も放水や消火器、催涙ガス液を浴びせ、重さ10kg、幅60cmのスチール製ごみ箱やロッカー、果ては砲丸の鉄球までもがデモ隊にむかって投げ落とされた(砲丸の鉄球は証拠品として弁護団が押収)
全共闘は態勢を立直すため、一旦、本部へ抗議のデモ。ここで秋田議長はスト突入を宣言。この時、白山通りから経済学部二号館前の路上に赤白モヒカンのヘルメットが投出される。周辺の学友が急いで装着、50名の行動隊が編成され、つぎつぎと正面玄関から学内に突入。缶ビールが投げつけられるなか、体育会系学生の築いた手前のバリケードを突破。奥側のバリケードに取りつくが、日本刀や木刀、ゴルフクラブやチェーンなどの凶器を振りかざし、消火器を吹きつける職員と体育会系学生に阻止され、正面玄関や守衛室付近まで押しもどされる。
この間、100名ほどの学友が白山通りの窓からも一号館に突入。しかし、立て籠もった体育会系学生の暴力に抗し得ず、顔面を血だらけにした学友や殴打され気絶した学友を搬送するため、撤退。
大学当局は機動隊800名の出動を要請。学友らは機動隊が加害者の体育会系学生を排除してくれるものと誤認、拍手と歓声で迎えたが、機動隊は体育会系学生の暴力行為を制止するどころか、被害者の学友たちを規制する暴挙にでる。怒りの抗議をする学友らが排除され、規制に抵抗する学友6名が検挙された。
法闘委は、法学部三号館前でスト権を確立。三号館を占拠し、バリケードを構築。
経済学部前で機動隊に規制され、分断された学友らは本部前で抗議のデモを展開。その後、法学部三号館に結集し、200名が泊まり込み態勢を取る。
この日、負傷した学友は入院40名、全治二週間の重傷者60名をふくめ200名にのぼる。
全共闘は五項目からなる闘争スローガンを採沢。
①全理事総退陣 ②経理の全面公開 ③不当処分白紙撤回 ④集会の自由を認めよ⑤検閲制度撤廃。

7月4日 全共闘、「夏休み策動粉砕全学総決起集会」(経済学部一号館)。全十一学部から15000名結集。文闘委主催の学生大会に2000名結集。「久米執行部弾劾決議」を採択。大会後、鈴木知太郎学部長以下、全教員出席のもとで学部団交を開催。

9月4日 東京地裁の仮処分決定にもとづき日大本部、法学部、経済学部が強制代執行。バリケードが800名の機動隊によって破壊される。法闘委と経闘委の学友132名逮捕。
全共闘は理工学部九号館建設予定地で2000名の全学抗議集会。集会後、法学部、経済学部を再占拠。バリケードを構築する。
郡山の工学部闘争委員会(大塚規雄委員長)、無期限スト突入。

9月5日 法学部、経済学部に、再度、機動隊が導入。バリケードが破壊される。5000名の全学抗議集会。白山通りで10000名がデモと抗議集会。三度、法学部、経済学部を占拠。津田沼の生産工学部、校舎を占拠し、スト突入。

912 全学総決起集会に7000名が結集。集会後、白山通りのデモで機動隊と衝突。学友2名負傷。機動隊の弾圧で逮捕者は154名。全共闘は法学部、経済学部を奪還。バリケードを再構築し、再度、長期スト態勢を確立。

930日 全共闘は経済学部前で10000名の全学総決起集会。両国の日大講堂では農獣医学部を中心とする学内右翼学生集団「日新会」など800名が集会を開き、大学当局の意にそった「全学集会」を画策するが、全共闘行動隊300名は「日新会」の学生200名を両国講堂から排除。学友25000(最大で35000名とも)が結集し、十二時間にわたる大衆団交が開催される。
全共闘は冒頭で「なによりも悲しむべきことに、ひとりの人間が死んだ。それなのに、なぜ理事会は仮処分を撤回して、自らの犯罪性について自己批判しないのか」と大学当局を批難するとともに、西条巡査部長への弔意をささげる。
古田会頭をはじめ出席した理事や学部長らは九項目の要求を全面的に認め、誓約書につぎつぎと署名。そのたびに歓声と紙吹雪が舞った。
この間、生産工学部のバリケードが「学園浄化促進委員会」と称する学生集団に撤去されたが、津田沼闘委は教職員のピケットを破り、構内から「浄化委員会」の学生集団を排除。本館を再び占拠した。

101日 佐藤栄作首相、閣議で大衆団交を重視し「政治問題として取り上げるべきだ」と異例の発言。官邸内に大学問題閣僚懇談会を設置。中曽根康弘運輸相はじめ7人の閣僚と秦野章警視総監による第一回の会合を開く。
佐藤首相は、それまで記者団に大学問題を問われても「まだ社会問題や政治問題とは思わない」と発言していたが、それが一転したのは、当時、全国の五十を越える大学で学園闘争が頻発しており、この大衆団交方式が全国の学園に波及することを恐れたためと考えられる。と同時に、古田会頭は、首相が関係している「日本会」の有力会員で、首相とも緊密な親交があり、そのことが首相をよけい奮起させたとの観測もながれた                              

10月5日 全共闘議長の秋田明大などに公安条例違反、公務執行妨害の疑逮捕状がだされる 

 

1122 東大安田講堂前にて「日大・東大闘争勝利全国学生総決起大会催。全国から15000名が結集。日大全共闘は3000名の隊列で三崎町から本郷にむかう。全共闘旗を翻しながら、夕暮れの銀杏並木を隊列が進んでいくと、安田講堂前の広場にどよめきと歓声が湧きおこった。東大全共闘の学友のなかには、この光景を泣きながら見つめている者がいたという。

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グッチー

昨年古希を迎えました。人生も終盤。学生時代の言葉で言えばそろそろ人生の「総括」と何か新しい自分を発見するためブログを始めました