全共闘運動のまとめ
社会問題全共闘運動のまとめ
![6_15a[1]](https://blog-imgs-111.fc2.com/1/9/4/194sann/20181105002745587.jpg)
1、 全共闘運動の定義
まず簡単に戦後の左翼運動の歴史を振り返ってみるとアメリカの日本民主化政策もあり戦後の日本の混乱期には生活の向上を求めて組合運動が強く、それを支援する社会党などの政党が左翼運動をけん引していた。(三井争議など)その後1960年代ごろから先進国において既成左翼政党の運動を否定しより急進的な革命を志向する勢力=新左翼の勢力(各セクト)が出現した。そして1968年にそのどちらにも属さない新しい運動体としてノンセクトラジカルを中心とする全共闘運動が誕生する。基本的には思想・信条・立場に関係なく個人の意思で共通の目標(古田体制打倒)に向かって共に闘う連合体。(学生たちが「大衆団交」を執拗に求めた民主主義とは何かという概念=個人の意思が最優先されるべきとする考えがある)
2、 東大闘争と日大闘争の共通点と相違点
(1)共通点
① 建物の占拠とバリケード・ストライキという実力行使を伴う抗議行動
デモなどで意思表示をする、あるいは話し合いなどでは問題は解決されない。自分たちの要求を通すには建物の占拠などの実力行使が必要不可欠(新左翼系三派全学連が主張)
② 大衆団交を要求
根本的な取り決めをするときは全ての学生と理事は同等の立場にあり、全学生と全理事が立ち合い、公開の場で直接的に行うのが民主主義の大原則=個人の意見が述べられる場の保障・そのための情報は全て公開されなければならない。今までだと交渉事は双方から選ばれた代表団交渉し、その合意事項を持ち帰り大会で報告了承を得るというスタイルでした。それをしてはならないということです。それは学生側の代表者にも要求されました。
③ 東大当局者と古田体制
一見この二つはまるで正反対の体制のように見えますが、両者東大当局者(独善的・権威主義者)と古田体制(教育で利潤追求)は共に象牙の塔にこもり、社会の動き(60年安保闘争等)に関わろうともせず、戦前の価値観や行動原理を残したまま戦後20年をやり過ごしてきた。そして戦後民主主義教育の第1期生で「権威を否定」する20歳の団塊の世代と出会うことになる。
(2)相違点
①東大当局者と古田体制
実質的な闘争の始まりは東大の場合、学生の不当処分に抗議し て学生が安田講堂占拠。大学当局が機動隊の導入でこれを排除。この大学の行為は「大学の自治の自由」を放棄したと抗議して全校の共感(「全共闘と話し合いを拒否したままなぜ機動隊を導入した」)を得たからでした。
その大学の自治さえ認めていない日大では大学当局が抗議集会を妨害するための暴力的な弾圧があるなかでそれを撥ね返し、『日大初の200mデモ』を成功させてからでした。
そのため同じ様に全共闘を名乗り、システムも似た組織でありながら東大闘争は抽象的な思想闘争の側面が強くなり、一方学生の自治さえ認めていない日大闘争の方はまず集会の自由を認めさせる為に連日抗議集会を持つなどの具体的な行動が求められ、その集会をする度に周りにいる者を巻き込んで、さらに大きな集会へと盛りあがり見せていった。
そして東大闘争は「大学の自治」「学問・研究の自由」の名のもとに営々と続いている東京大学の組織の腐敗・それに守られてきた大学当局者の精神的堕落等を告発する戦いとなり「東京帝国大学解体」のスローガンが掲げられる。そして東大当局者と同じ様に自分も悪しきエリート意識・権威主義に安易に埋没してきたのではないかと「自己否定」を絶えずしなければならないという結論にまで行きつく。
闘争の長期化に伴い運動がより先鋭的なり、離脱するあるいは反対する者も出始めてくる。そこに政府の介入があり、運動の先鋭化集団が占拠する安田講堂の解除に機動隊導入により運動は終焉。
私はこの東大全共闘の行動を幕末の下級武士たちが封建制度の下にいろんな屈辱に耐えていたところにその封建制度が揺らぎ始め、「尊王攘夷」という旗が掲げられ才能のある若者たちがそれぞれの思惑で動き始め、その動きが複雑に絡み合って早すぎる天才の死、早すぎた武装蜂起、藩改革など色んな群像劇が見られます。「大学解体」をスローガンに掲げて最後は安田講堂で機動隊と激しい攻防戦繰り広げた東大全共闘は幕末のどの辺に位置付けるべきなのか?と考えたりします。
一方の日大闘争は23日に歴史的「200mデモ」後の連日持たれる各部の抗議集会に今まで政治や闘争に無関心だったノンポリ学生を巻き込みながら運動は盛り上がりつつあった。そして6月11日事態は一気に動く。抗議集会を行おうとする学生達に暴力的妨害をする大学側と激しい攻防戦が繰り広げられ、機動隊も出動する中、建物の占拠・バリケード構築・ストライキ決議・5項目の闘争スローガン採択して長期間のバリケード・ストライキに突入していく。
長期間のバリケード・ストライキの生活や対大学との攻防戦を柔軟な姿勢で乗り切り、9月30日に大衆団交を実現させ5項目要求認めさせるも翌日の政府の介入発言により、理事側は交渉の誓約書を白紙撤回する。これで日大闘争は事実上終結する。
日大闘争は元々の出発点からして自然発生的に運動体が産れているし、革命を目指す政治運動では無く、待遇改善を求める社会運動の一つであったと思っています。だからこちらは劇画作家白戸三平さんの「カムイ伝」で描かれている農民のイメージがあります。「カムイ伝」とは1964年スタートの三部作で現在二部まで27巻まで完成している。江戸初期の架空の藩を舞台として最下層の身分の非人(カムイ)、農民(庄助)、支配者として武士(竜之進)三者三様の若者を中心に物語は展開していく。ある時は身分制度や差別の問題が描かれたり、農民に対する支配階級の武士の苛酷な弾圧、それに対抗する農民の知恵と工夫で
したたかに生きていく姿が描かれている。
大学の管理と右翼支配のもと、下を向いていた日大生が自己を主張し、はじめて「自己肯定」した、そういうたたかいだった。そうだと思います。その時に湧いてきたイメージがこれとは正反対の立場にいた戦没学生は手記に「私は自由主義者です。その理論によれば日本は負けるでしょう。それが解っていても私は愛する祖国のために特攻隊員という誇りをもって明日飛び立っていきます」と書いています。これもまた一つの「自己肯定」でしょうね。
今回はここまでにしておきます。次回はやっと「全共闘の敗北と総括」に入れそうです・
全共闘運動のまとめ
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1、 全共闘運動の定義
まず簡単に戦後の左翼運動の歴史を振り返ってみるとアメリカの日本民主化政策もあり戦後の日本の混乱期には生活の向上を求めて組合運動が強く、それを支援する社会党などの政党が左翼運動をけん引していた。(三井争議など)その後1960年代ごろから先進国において既成左翼政党の運動を否定しより急進的な革命を志向する勢力=新左翼の勢力(各セクト)が出現した。そして1968年にそのどちらにも属さない新しい運動体としてノンセクトラジカルを中心とする全共闘運動が誕生する。基本的には思想・信条・立場に関係なく個人の意思で共通の目標(古田体制打倒)に向かって共に闘う連合体。(学生たちが「大衆団交」を執拗に求めた民主主義とは何かという概念=個人の意思が最優先されるべきとする考えがある)
2、 東大闘争と日大闘争の共通点と相違点
(1)共通点
① 建物の占拠とバリケード・ストライキという実力行使を伴う抗議行動
デモなどで意思表示をする、あるいは話し合いなどでは問題は解決されない。自分たちの要求を通すには建物の占拠などの実力行使が必要不可欠(新左翼系三派全学連が主張)
② 大衆団交を要求
根本的な取り決めをするときは全ての学生と理事は同等の立場にあり、全学生と全理事が立ち合い、公開の場で直接的に行うのが民主主義の大原則=個人の意見が述べられる場の保障・そのための情報は全て公開されなければならない。今までだと交渉事は双方から選ばれた代表団交渉し、その合意事項を持ち帰り大会で報告了承を得るというスタイルでした。それをしてはならないということです。それは学生側の代表者にも要求されました。
③ 東大当局者と古田体制
一見この二つはまるで正反対の体制のように見えますが、両者東大当局者(独善的・権威主義者)と古田体制(教育で利潤追求)は共に象牙の塔にこもり、社会の動き(60年安保闘争等)に関わろうともせず、戦前の価値観や行動原理を残したまま戦後20年をやり過ごしてきた。そして戦後民主主義教育の第1期生で「権威を否定」する20歳の団塊の世代と出会うことになる。
(2)相違点
①東大当局者と古田体制
実質的な闘争の始まりは東大の場合、学生の不当処分に抗議し て学生が安田講堂占拠。大学当局が機動隊の導入でこれを排除。この大学の行為は「大学の自治の自由」を放棄したと抗議して全校の共感(「全共闘と話し合いを拒否したままなぜ機動隊を導入した」)を得たからでした。
その大学の自治さえ認めていない日大では大学当局が抗議集会を妨害するための暴力的な弾圧があるなかでそれを撥ね返し、『日大初の200mデモ』を成功させてからでした。
そのため同じ様に全共闘を名乗り、システムも似た組織でありながら東大闘争は抽象的な思想闘争の側面が強くなり、一方学生の自治さえ認めていない日大闘争の方はまず集会の自由を認めさせる為に連日抗議集会を持つなどの具体的な行動が求められ、その集会をする度に周りにいる者を巻き込んで、さらに大きな集会へと盛りあがり見せていった。
そして東大闘争は「大学の自治」「学問・研究の自由」の名のもとに営々と続いている東京大学の組織の腐敗・それに守られてきた大学当局者の精神的堕落等を告発する戦いとなり「東京帝国大学解体」のスローガンが掲げられる。そして東大当局者と同じ様に自分も悪しきエリート意識・権威主義に安易に埋没してきたのではないかと「自己否定」を絶えずしなければならないという結論にまで行きつく。
闘争の長期化に伴い運動がより先鋭的なり、離脱するあるいは反対する者も出始めてくる。そこに政府の介入があり、運動の先鋭化集団が占拠する安田講堂の解除に機動隊導入により運動は終焉。
私はこの東大全共闘の行動を幕末の下級武士たちが封建制度の下にいろんな屈辱に耐えていたところにその封建制度が揺らぎ始め、「尊王攘夷」という旗が掲げられ才能のある若者たちがそれぞれの思惑で動き始め、その動きが複雑に絡み合って早すぎる天才の死、早すぎた武装蜂起、藩改革など色んな群像劇が見られます。「大学解体」をスローガンに掲げて最後は安田講堂で機動隊と激しい攻防戦繰り広げた東大全共闘は幕末のどの辺に位置付けるべきなのか?と考えたりします。
一方の日大闘争は23日に歴史的「200mデモ」後の連日持たれる各部の抗議集会に今まで政治や闘争に無関心だったノンポリ学生を巻き込みながら運動は盛り上がりつつあった。そして6月11日事態は一気に動く。抗議集会を行おうとする学生達に暴力的妨害をする大学側と激しい攻防戦が繰り広げられ、機動隊も出動する中、建物の占拠・バリケード構築・ストライキ決議・5項目の闘争スローガン採択して長期間のバリケード・ストライキに突入していく。
長期間のバリケード・ストライキの生活や対大学との攻防戦を柔軟な姿勢で乗り切り、9月30日に大衆団交を実現させ5項目要求認めさせるも翌日の政府の介入発言により、理事側は交渉の誓約書を白紙撤回する。これで日大闘争は事実上終結する。
日大闘争は元々の出発点からして自然発生的に運動体が産れているし、革命を目指す政治運動では無く、待遇改善を求める社会運動の一つであったと思っています。だからこちらは劇画作家白戸三平さんの「カムイ伝」で描かれている農民のイメージがあります。「カムイ伝」とは1964年スタートの三部作で現在二部まで27巻まで完成している。江戸初期の架空の藩を舞台として最下層の身分の非人(カムイ)、農民(庄助)、支配者として武士(竜之進)三者三様の若者を中心に物語は展開していく。ある時は身分制度や差別の問題が描かれたり、農民に対する支配階級の武士の苛酷な弾圧、それに対抗する農民の知恵と工夫で
したたかに生きていく姿が描かれている。
大学の管理と右翼支配のもと、下を向いていた日大生が自己を主張し、はじめて「自己肯定」した、そういうたたかいだった。そうだと思います。その時に湧いてきたイメージがこれとは正反対の立場にいた戦没学生は手記に「私は自由主義者です。その理論によれば日本は負けるでしょう。それが解っていても私は愛する祖国のために特攻隊員という誇りをもって明日飛び立っていきます」と書いています。これもまた一つの「自己肯定」でしょうね。
今回はここまでにしておきます。次回はやっと「全共闘の敗北と総括」に入れそうです・
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