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全共闘運動の敗北

社会問題
11 /12 2018

3 全共闘運動の始まりから敗北まで

 

 1968年頃既成のどの組織にも属さない(ノンセクト)学生達が学校の諸問題について闘うための組織が各大学で結成されていった。そして東大闘争が特攻隊の様に散った事が逆に全共闘運動が一気に各地に拡散していくきっかけになる。そして全共闘運動のピーク時には大学の8割が闘争状態になるまで拡大した。

全共闘の最大の特徴は学校の状況に不満を持つ者が集まり闘うことの共通認識を確認すればそれで全共闘を名乗りあげる事が出来る事だった。まず核となる先進的な集団があり、そこに自分の自由意思で参加する。だから個人の意思が最高決議機関として位置づけされることになり、執行部も独断専行は許されない大衆主体運動とも呼ぶべき運動であった。それはあらゆる面でそれまでの権威を総て否定することでもあり、それ以前の学生運動には見られなかった。高名な権威者であろうと社会的地位の上級者であろうと糾弾するいうスタイルが確立されていく。(そういう学生の変化は当時世界的に見られたという)またそれは左翼の労働組合や新左翼のセクトの組織も否定することも含んでおり、それまでの学生運動の概念とは全く質の異なる、新左翼超える超左翼と言っていい学生の叛乱。私なんかはそこに強い衝撃を受け、またすごく新鮮さを感じました。私たちの世代は組織などの束縛から自由でいたいという願望を強く持っている世代だと思います。(闘争に参加した日大生は「私たちの社会は自由が保障されているように見えて常に行列に並ぶようにと無言の圧力が働く社会。その行列から少し外れた私は全共闘になるしかなかった。」とつぶやいています。またこの当時の若者文化として現れる形は違いますが既成の価値観や制度に反発し社会からドロップアウトする生活を送るヒッピー文化も流行現象としてありました)そして戦後の学生運動の核となってきた自治会の形式的民主主義も社会の行列の一つに過ぎない制度であるとして支持をされなくなった。

 

そんな状況の中、各大学で諸問題が発生した時に先進的な学生たちが闘争委員会を立ち上げ、それを核にして周りの者達が自分の自由意思でその運動に加わるというスタイルが自然発生的に生まれてきた。既成のものではない自分たちが新しい共同体を創るという高揚感(エネルギー)を結集して全学的な闘争組織に集約されていく。新しい歴史は常に前の歴史を否定する形で生まれてくる。共産党等の

既成政党を否定する新左翼が生まれたように、新左翼を乗り越える形として全共闘は生まれた。既成の組織の理念や論理から逸雑し間接民主主義を否定し、それぞれが自分の意思で直接参加し行動するというスタイルは「以前の既成政党などのスタイルではデモなどの抗議行動もすべて予定調和の範囲でしか動けない。そして大衆を総動員することはできなかったこと」をあっさり乗り越えてしまうのである。それぞれが自分の意思で闘争に加わる方式だと運動が盛り上がれば参加者はどんどん増え、執行部が把握できない状態にまでなる。最前線では先鋭化した集団の暴走も起きる。日大闘争はまさにそういう運動だったと思う。「大衆団交」の時には学生数が日大生8万人のうち3万5千人が参加。これは国を二分したと言われた60年安保闘争時の国会突入デモ人数13万人の4分の1の人数が一大学の集会に参加するのである。このように既成政党の指導から独立し、新左翼系の政治闘争に距離を置き、第3の道「大衆運動」の新たな水平線を切り開いた全共闘運動だが国家権力が全面出てくると初めて闘争した経験しか持たない集団の弱点である「戦術」や「戦略」や「未来への展望示す」など面が短期間に運動が急成長したために未熟なまま前面に出てきた国家権力と戦う闘争方法を確立できないまま(今までの戦い方ゲバ棒にヘルメット、バリスト)戦うしかなく(蟷螂の斧状態)次々制圧されていった・。また大学臨時措置法の適用、全共闘がセクト色が強くなった事などで一般学生の支持を失い急速に力を失った。その後この全共闘の運動形態を引き継ぐ、あるいは全共闘を超えるような運動体も現れることも無く実質2年でその幕を降ろしてしまう。

あれだけ勢いがあった全共闘が国家権力の介入であっけなく敗北。衰退していくのを目の当たりにした新左翼の各セクトは「巨大な国家にどう立ち向かうのか」その戦略やその元となる理論の対立などからセクト間で、あるいはセクト内の身内同士で内ゲバを繰り返し、分裂・衰退していく。そういう新左翼の動きの中に「国家の暴力装置に立ち向かうにはこちらも武装闘争路線=「早急に銃や爆弾で武装蜂起しなければならない」とその行動はますます過激化、武闘化                                                             路線を進んでいったのがブントから派生した赤軍派(1969年9月結成)であった。その2か月後,武装化への訓練中の大菩薩峠で大量の逮捕者を出し大きなダメージを受ける。その失敗から革命のため「国際根拠地」をつくり、そこで軍事訓練を受け、日本で「武装蜂起」するという考えに基づき1970年3月31日航機「よど号」をハイジャックして北朝鮮に渡航。赤軍派の残ったメンバーは新たな国際拠点をレバノンに求めた。重信房子を中心とするこのグループは「日本赤軍」と呼ばれ数々のテロ事件を引き起こしていく。まず1972年5月「テルアビブ空港銃乱射事件」(26人死亡 無差別テロ)1975年8月クアラルンプール事件(アメリカ大使館、スウェーデン大使館占拠。日本赤軍のメンバーの解放要求・日本政府要求に応じる。)1977年9月ダッカ事件(飛行機を乗っ取り人質と赤軍派メンバーの解放要求・日本政府要求に応じる。)

国内に残った最後の赤軍派は京浜安保共闘と連合赤軍を結成1972年浅間山荘事件(浅間山荘に人質をとり立てこもる。警官隊と銃撃戦)この事件の前の軍事訓練中に「総括」と称してリンチ殺人で仲間12人を殺害)

こうして見てくると全共闘運動の敗北後の運動は学生運動の範疇を超えるものとなってしまった。連合赤軍のリンチ殺人事件は過激な新左翼にさえ嫌悪感持たせるものであり、日本赤軍はもう完全にテロリスト集団になってしまった。スタートの第一歩を少し間違っただけで人間はこうも堕ちるものなのかと思う。彼らと同じ時代を現在進行形で生きて来たものとしてはやるせない気持ちになる。こうして長い歴史を持つ学生運動は1970年代末にはほぼ消滅状態になっている。学生運動の復活はあるのか。

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グッチー

昨年古希を迎えました。人生も終盤。学生時代の言葉で言えばそろそろ人生の「総括」と何か新しい自分を発見するためブログを始めました