ベトナム戦争
社会問題ベトナム戦争とはⅡ
表題を「ベトナム戦争」とせずに「ベトナム戦争とは」としたのは私なりの理由があります。「ベトナム戦争」の事実だけ正確に知りたいのであれば、教科書や辞典を読めば済むことで、より詳しく知りたければその事に長く関わって来られた専門家の人たちの書物を読めば済むことです。またその事に関しては全くの素人で、勉強不足であることは十分自覚していますし、「こんな程度の事はみんな知っているよ」と言われるだろうなと思います。それでもその馬鹿が敢えて「大胆不敵」にもこんな事を始めたのは一つには「あの時代自分は何を考えどうしようとしていたのか」をこの時代から検証してみようという事で始めました。私は自称「随分遅れてやって来た全共闘世代」と位置づけています。それで同じ事実でもその人の立ち位置や背負ってきたものによって見える風景が随分違うものになります。いつの時代でも大人が何と言おうと時代の新しい波を創っていくのは20代の若者たちです。そして1968年が歴史の中でターニングポイントとなった年とするならあの時代を生きて来たものは今の若者たちに何かを伝えておくべきだと思います。私のようなものから見えている風景を伝えることも何かの足しにはなるだろう。という事で「ベトナム戦争とは…」と言う自分への問いかけなのです。
とここで視点を20歳の彼ら視点で見ると「ベトナム戦争はとは」歴史事実の一コマに過ぎないのです。私が20歳の50年前 1920年頃の出来事―1917年ソビエト政権樹立、1918年第1次世界大戦終結、1921年原敬首相暗殺される、1923年関東大震災などがありますがその50年前の出来事をいくら熱く語られても実感としてピンとこなかったと思います。ところが今から50年前の1968年の事は昨日のように語れるわけです。記憶(memory)と歴史(history)の違いですね。若者たちにも全く興味を持たれていないテーマに挑むなんてまさに「ドン・キホーテ」状態ですね。
「閑話休題」
前回の「アイ・キャッチ」に使用させて頂いた写真は有名な写真です。報道家写真家・澤田教一さんがベトナム戦争を報道した時に「安全への逃避」という題で発表されたものです。この作品はピュリーッツアー賞を初めいくつかの賞を受賞。戦争と言う生命の危険がいつもある厳しい現場に出向き身体を張って「戦争の事実」を世界に発信する人たちの中から彼が選ばれた。この分野でも世界に誇ることのできる人が出てきたと少し興奮を覚えた記憶があります。(ノーベル賞の授賞者に日本人の名前が発表された時の感覚)その彼も1970年取材現場から帰る途中に強盗に会い殺害された。彼の事はNHKで「特集」が放送され、ドラマも「放映」されました。政府も彼の功績を称えて勲章を授与しています。
そして今、世間は「自己責任論」で喧しい。あの時代にはまだ危険な地域に身をさらし(実際に強盗に襲われ死亡している。)、報道している人たちをきちんと評価する「空気」が政府も含めまだあったのです。今の声高に「自己責任論」を語る時代では澤田さんは無駄死になり、何も行動しないで
「見ざる」、「聞かざる」、「言わざる」で生きるのが
ベストの生き方になります。そんな社会を目指すのですか。
1、ベトナム戦争
・北ベトナム軍と南ベトナム解放戦線とが南ベトナム政府軍とアメリカ軍と戦った戦争。途中からは隣国のカンボジアとラオスに拡大したので、第2次インドシナ戦争ともいわれる。
(1) ベトナム戦争の開始
1964年ジョンソン大統領は「トンキン湾事件」(北ベトナム軍がアメリカ軍の駆逐艦に魚雷攻撃をしたとされる事件)を口実に北ベトナムを爆撃。1965年恒常的な北爆を開始。更に18万人余りのアメリカ軍を投入。他にも反共の国々(韓国、オーストラリア、タイ王国など)も参戦。
ソ連と中国が対立しながらも競争するように北ベトナムに軍事援助を行う。ために北ベトナム軍の兵器は急速に充実強化される。
(2) 戦闘状況
・アメリカ軍は最盛期で50万人の地上軍を投入。
・索敵殺害作戦 村や森に紛れた北ベトナム兵や南ベトナム解放戦線のゲリラを探し出し、殲滅する事を目的としていた。
その作戦の性格状ナパーム弾などによる農村への無差別攻撃や、化学兵器も使用された事やアメリカ軍や韓国軍兵士による村民への暴行・殺戮・強姦・略奪を引き起こす。
・韓国陸軍によるビンディン省の大量虐殺
1966年ビンディン省で400人、1200人、65人、380人 フガツ省では3万5千人を虐殺 その他にも虐殺事件を起こしている。
・1968年 無抵抗の村民504人を無差別射撃などで虐殺したソンミ村虐殺事件が発生(この事件が報道されるとアメリカ国内で反戦運動が激化)
・テト(旧正月)攻勢1968年
北ベトナム軍と南ベトナム解放戦線は南ベトナム軍とアメリカ軍に大規模な一斉攻撃をかけた。その時サイゴン市のアメリカ合衆国大使館も占拠されるなど南ベトナム軍とアメリカ軍は一時混乱状態に陥ったが、体勢を立て直し反撃。南ベトナム解放戦線は壊滅状態になる。ジョンソン大統領は「テト攻勢は失敗した」と声明したが、南ベトナム解放戦線側は・7万人近くの人数が参加してベトナム国内の44の省都うち34省都と64の地方都市、米軍基地などを攻撃している。このテト攻勢でアメリカ軍はこの年の死者の30%余りをこの時に失っている。この攻勢後情勢は大きく変わっていく。アメリカ国内では「ベトナムからの撤退」を主張する動きが勢いをつけ、ジョンソン大統領は次期大統領選の出馬辞退と北爆の部分的停止を発表。
(3)カンボジアとラオス情勢
・カンボジア
1970年「容共的元首」シハヌーク国王の外遊中にマタク殿下とロン・ノル国防相がクーデターを成功させ、「クメール共和国」の設立を宣言。なぜかこの時北ベトナム軍がカンボジアに侵攻。この後ロン・ノルのカンボジア政府軍と中華人民共和国の支援を受けた毛沢東思想の信奉者のポル・ポト率いるクメール・ルージュの間でカンボジア内戦が始まる。
北ベトナムのカンボジア侵攻の後今度は南ベトナム軍とアメリカ軍が中華人民共和国とソビエト連邦から北ベトナムと南ベトナム解放戦線への物資支援ルートである「ホーチミンルート」「シハヌークルート」の遮断を目的にカンボジアに侵攻。一時的には遮断できたがすぐ復旧され目的は成功しなかった。
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