ベトナム戦争とは
社会問題
ベトナム戦争とはⅢ
はじめに
前回キャチ・アイの図として使用させて頂いた写真について説明しておくべきことのべておきます。
1972年6月8日南ベトナム軍がキム・フックさんの暮らす村にナパーム弾を投下。この時、逃げ惑う村人たちとともに裸で逃げる9歳の少女だったキム・フックさんを撮影した写真(フィン・コン・ウト撮影)は「戦争の恐怖」と題され、全世界に配信されました。世界に衝撃を与えたこの写真は1973年にピューリッツァー賞と世界報道写真大賞を受賞するとともに世界史を変えた1枚とも称されています。ベトナム戦争の写真には目を背けたくなるような写真がたくさんありますが、その写真では無くこの写真が「反戦」を訴えかけ、ベトナム戦争を終わらせた「写真」の一枚と称されているのはよくわかります。写真1枚には人の想像力を掻き立てる情報や言葉に表現できない情報が沢山詰まっています。
キム・フックさんはこの空襲で重度の火傷を負い、一命はとりとめたものの17回にも及ぶ手術を受けています。1992年結婚、現在は2児の母親です。この写真を撮ったウトさんとも再会果たしています。
(4)中ソの対立激化と米ソの緊張緩和
ベトナム戦争ではソビエト連邦と中華人民共和国は双方ともベトナムを支援していたが、両国の政治姿勢の違いや両国の領土問題を抱えて対立は深まっていた。中国で文化大革命起こり先鋭化した1960年代末には国境線の両側にソ連軍(65万8千人)中国人民解放軍(81万4千人)が対峙する事態になった。そして両軍の衝突、いわゆる「ダマンスキー島事件」が起きる。
このような状況受けてソ連のブレジネフ書記長はアメリカとの間の緊張緩和を目論み直接交渉にはいる。
(5)北爆再開から講和へ
米ソが対立から緊張緩和への流れを受けて、北ベトナムとの講 和を急ぐニクソン大統領は1972年5月に北爆再開を決定。この作戦は圧倒的な航空戦力で北ベトナムの国力と軍事力を徹底的に削ぐことで北ベトナム政府を和平交渉に応じさせることが目的であった。以前のような散発的な北爆ではなく、徹底的で集中的な無差別攻撃を採用。1万5千機の航空機が6万トンの爆弾を投下するとともに港湾を機雷で封鎖。そのためハノイなどの地区は完全に焼け野原になり軍事施設だけでなく電力・水・道路などのインフラ関係も大きな被害が出た。また港湾を機雷で封鎖されたため中国やソ連などの兵器や物資届かなくなっていた。アメリカ軍によるこの作戦は純軍事的にはほぼ成功をしたといえる結果である。北ベトナム軍は崩壊する直前にまで追い詰められ、多数の死傷者がでた北ベトナムの市民にも厭戦気分がひろがりつつあった。ただ北ベトナムに幸いだったのは再度の北爆は国際世論の轟轟たる非難と反発から短期間で中止されたが、皆さんはこの北爆をどう解釈しますか。私は太平洋戦争の末期に「原爆」投下という無差別攻撃で非戦闘員である市民に多数の死傷者をだしながら「戦争を早く終結させるためにやむえなかった」という論理と重なって見えます。どちらの場合も色々な選択肢があったはずです。「已むえない」の一言で済ますべきではないと思います。ただ今回の場合、国際世論の轟轟たる非難・反発がブレーキ役を果たしているのはいいですね。
さて話を戻しますと、ニクソン大統領は中華人民共和国を訪問 する意向を発表し(1971年7月)翌年2月に訪中。「ニクソンショック」と言われ世界に衝撃を与えました。そして5月に北爆を決定した。こうした流れから中国はアメリカが北爆を再開することを知っていた可能性があります。今度の空爆はアメリカが徹底的にやることを中国が知っていたとしたらどう考え、どんな行動をとったのかその時の中国の動きはわかりませんが興味があります。多分アメリカ軍の北爆や海上封鎖は中国の暗黙の了解を得ていたと思います。ソ連がアメリカに近づき、アメリカは中国に近づく。この大国のパワーゲームの中で小国の北ベトナムは中華人民共和国の裏切り行為だと批判し、「反中国」となりソ連との関係を強めていくが、2大支援国家が北ベトナムから手を引く政治情勢の中で孤立していくしかなかった。
状況が目まぐるしく推移する中、和平交渉の開始から5年近く年月を経て1973年に北ベトナム、アメリカ、南ベトナム、南ベトナム共和和国臨時革命政府の4者の間でパリ協定が交わされ、ニクソン大統領は米国民に「ベトナム戦争の終結」を宣言した。
(6)南北統一へ
パリ和平協定で北ベトナムとアメリカの間で「アメリカ軍正規軍の全面撤退と外部援助の禁止」「北緯17度線は南北の国境ではなく統一総選挙までの停戦ラインであること」等の合意の元2か月後にはアメリカ軍の撤退は完了。
北爆停止後体勢を立て直し、軍事力を増強してきた北ベトナムとアメリカ軍が撤退し、アメリカからの援助も激減する南ベトナムの軍事力の差は拡大していった。
パリ協定締結後アメリカ軍の再介入を恐れて、自重していた北 ベトナム軍だが、南ベトナム軍への攻撃(パリ協定違反)は増加していた。(なおこの渦中に中国人民解放軍が西沙諸島に駐留する南ベトナム軍を宣戦布告無しに奇襲攻撃を行い、占拠。そして現在も実行支配が続いている)
一方のアメリカはウォーターゲート事件でニクソン大統領は辞任。後を引き継いだフォード大統領はオイルショック後の国内の不況からの脱出が最優先課題となりベトナム情勢に対する興味を失っていった。(パリ協定違反である北ベトナム軍の南ベトナ軍への攻撃に異を唱えることもしなかった。
その状況を受けて、北ベトナム政府は「アメリカ軍の再介入は無い」と判断し、南北ベトナムを統一すべく1975年3月南ベトナム軍に対して全面攻撃を開始した。兵力も士気も落ちている南ベトナム軍は総崩れ状態になり北ベトナム軍は一気にサイゴン市に迫った。
サイゴン陥落は避けられない状況となりアメリカ政府と軍は撤退作戦を開始。アメリカ政府・軍・南ベトナム関係者が必死の脱出行う。この時在留邦人はアメリカ軍に拒否され、日本政府の救援機も運行されなかったため混乱のサイゴン市に取り残された
4月30日南ベトナムのミン大統領は戦闘の終結と無条件降伏を宣言し、南ベトナムは崩壊、アメリカ合衆国の敗北が決定した。
1976年南北ベトナムの統一とベトナム社会主義共和国の樹立を宣言
![001ec94a25c5151748bf16[1]](https://blog-imgs-111.fc2.com/1/9/4/194sann/201812241846561b1.jpg)
はじめに
前回キャチ・アイの図として使用させて頂いた写真について説明しておくべきことのべておきます。
1972年6月8日南ベトナム軍がキム・フックさんの暮らす村にナパーム弾を投下。この時、逃げ惑う村人たちとともに裸で逃げる9歳の少女だったキム・フックさんを撮影した写真(フィン・コン・ウト撮影)は「戦争の恐怖」と題され、全世界に配信されました。世界に衝撃を与えたこの写真は1973年にピューリッツァー賞と世界報道写真大賞を受賞するとともに世界史を変えた1枚とも称されています。ベトナム戦争の写真には目を背けたくなるような写真がたくさんありますが、その写真では無くこの写真が「反戦」を訴えかけ、ベトナム戦争を終わらせた「写真」の一枚と称されているのはよくわかります。写真1枚には人の想像力を掻き立てる情報や言葉に表現できない情報が沢山詰まっています。
キム・フックさんはこの空襲で重度の火傷を負い、一命はとりとめたものの17回にも及ぶ手術を受けています。1992年結婚、現在は2児の母親です。この写真を撮ったウトさんとも再会果たしています。
(4)中ソの対立激化と米ソの緊張緩和
ベトナム戦争ではソビエト連邦と中華人民共和国は双方ともベトナムを支援していたが、両国の政治姿勢の違いや両国の領土問題を抱えて対立は深まっていた。中国で文化大革命起こり先鋭化した1960年代末には国境線の両側にソ連軍(65万8千人)中国人民解放軍(81万4千人)が対峙する事態になった。そして両軍の衝突、いわゆる「ダマンスキー島事件」が起きる。
このような状況受けてソ連のブレジネフ書記長はアメリカとの間の緊張緩和を目論み直接交渉にはいる。
(5)北爆再開から講和へ
米ソが対立から緊張緩和への流れを受けて、北ベトナムとの講 和を急ぐニクソン大統領は1972年5月に北爆再開を決定。この作戦は圧倒的な航空戦力で北ベトナムの国力と軍事力を徹底的に削ぐことで北ベトナム政府を和平交渉に応じさせることが目的であった。以前のような散発的な北爆ではなく、徹底的で集中的な無差別攻撃を採用。1万5千機の航空機が6万トンの爆弾を投下するとともに港湾を機雷で封鎖。そのためハノイなどの地区は完全に焼け野原になり軍事施設だけでなく電力・水・道路などのインフラ関係も大きな被害が出た。また港湾を機雷で封鎖されたため中国やソ連などの兵器や物資届かなくなっていた。アメリカ軍によるこの作戦は純軍事的にはほぼ成功をしたといえる結果である。北ベトナム軍は崩壊する直前にまで追い詰められ、多数の死傷者がでた北ベトナムの市民にも厭戦気分がひろがりつつあった。ただ北ベトナムに幸いだったのは再度の北爆は国際世論の轟轟たる非難と反発から短期間で中止されたが、皆さんはこの北爆をどう解釈しますか。私は太平洋戦争の末期に「原爆」投下という無差別攻撃で非戦闘員である市民に多数の死傷者をだしながら「戦争を早く終結させるためにやむえなかった」という論理と重なって見えます。どちらの場合も色々な選択肢があったはずです。「已むえない」の一言で済ますべきではないと思います。ただ今回の場合、国際世論の轟轟たる非難・反発がブレーキ役を果たしているのはいいですね。
さて話を戻しますと、ニクソン大統領は中華人民共和国を訪問 する意向を発表し(1971年7月)翌年2月に訪中。「ニクソンショック」と言われ世界に衝撃を与えました。そして5月に北爆を決定した。こうした流れから中国はアメリカが北爆を再開することを知っていた可能性があります。今度の空爆はアメリカが徹底的にやることを中国が知っていたとしたらどう考え、どんな行動をとったのかその時の中国の動きはわかりませんが興味があります。多分アメリカ軍の北爆や海上封鎖は中国の暗黙の了解を得ていたと思います。ソ連がアメリカに近づき、アメリカは中国に近づく。この大国のパワーゲームの中で小国の北ベトナムは中華人民共和国の裏切り行為だと批判し、「反中国」となりソ連との関係を強めていくが、2大支援国家が北ベトナムから手を引く政治情勢の中で孤立していくしかなかった。
状況が目まぐるしく推移する中、和平交渉の開始から5年近く年月を経て1973年に北ベトナム、アメリカ、南ベトナム、南ベトナム共和和国臨時革命政府の4者の間でパリ協定が交わされ、ニクソン大統領は米国民に「ベトナム戦争の終結」を宣言した。
(6)南北統一へ
パリ和平協定で北ベトナムとアメリカの間で「アメリカ軍正規軍の全面撤退と外部援助の禁止」「北緯17度線は南北の国境ではなく統一総選挙までの停戦ラインであること」等の合意の元2か月後にはアメリカ軍の撤退は完了。
北爆停止後体勢を立て直し、軍事力を増強してきた北ベトナムとアメリカ軍が撤退し、アメリカからの援助も激減する南ベトナムの軍事力の差は拡大していった。
パリ協定締結後アメリカ軍の再介入を恐れて、自重していた北 ベトナム軍だが、南ベトナム軍への攻撃(パリ協定違反)は増加していた。(なおこの渦中に中国人民解放軍が西沙諸島に駐留する南ベトナム軍を宣戦布告無しに奇襲攻撃を行い、占拠。そして現在も実行支配が続いている)
一方のアメリカはウォーターゲート事件でニクソン大統領は辞任。後を引き継いだフォード大統領はオイルショック後の国内の不況からの脱出が最優先課題となりベトナム情勢に対する興味を失っていった。(パリ協定違反である北ベトナム軍の南ベトナ軍への攻撃に異を唱えることもしなかった。
その状況を受けて、北ベトナム政府は「アメリカ軍の再介入は無い」と判断し、南北ベトナムを統一すべく1975年3月南ベトナム軍に対して全面攻撃を開始した。兵力も士気も落ちている南ベトナム軍は総崩れ状態になり北ベトナム軍は一気にサイゴン市に迫った。
サイゴン陥落は避けられない状況となりアメリカ政府と軍は撤退作戦を開始。アメリカ政府・軍・南ベトナム関係者が必死の脱出行う。この時在留邦人はアメリカ軍に拒否され、日本政府の救援機も運行されなかったため混乱のサイゴン市に取り残された
4月30日南ベトナムのミン大統領は戦闘の終結と無条件降伏を宣言し、南ベトナムは崩壊、アメリカ合衆国の敗北が決定した。
1976年南北ベトナムの統一とベトナム社会主義共和国の樹立を宣言
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