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全共闘運動の敗北

社会問題
11 /12 2018

3 全共闘運動の始まりから敗北まで

 

 1968年頃既成のどの組織にも属さない(ノンセクト)学生達が学校の諸問題について闘うための組織が各大学で結成されていった。そして東大闘争が特攻隊の様に散った事が逆に全共闘運動が一気に各地に拡散していくきっかけになる。そして全共闘運動のピーク時には大学の8割が闘争状態になるまで拡大した。

全共闘の最大の特徴は学校の状況に不満を持つ者が集まり闘うことの共通認識を確認すればそれで全共闘を名乗りあげる事が出来る事だった。まず核となる先進的な集団があり、そこに自分の自由意思で参加する。だから個人の意思が最高決議機関として位置づけされることになり、執行部も独断専行は許されない大衆主体運動とも呼ぶべき運動であった。それはあらゆる面でそれまでの権威を総て否定することでもあり、それ以前の学生運動には見られなかった。高名な権威者であろうと社会的地位の上級者であろうと糾弾するいうスタイルが確立されていく。(そういう学生の変化は当時世界的に見られたという)またそれは左翼の労働組合や新左翼のセクトの組織も否定することも含んでおり、それまでの学生運動の概念とは全く質の異なる、新左翼超える超左翼と言っていい学生の叛乱。私なんかはそこに強い衝撃を受け、またすごく新鮮さを感じました。私たちの世代は組織などの束縛から自由でいたいという願望を強く持っている世代だと思います。(闘争に参加した日大生は「私たちの社会は自由が保障されているように見えて常に行列に並ぶようにと無言の圧力が働く社会。その行列から少し外れた私は全共闘になるしかなかった。」とつぶやいています。またこの当時の若者文化として現れる形は違いますが既成の価値観や制度に反発し社会からドロップアウトする生活を送るヒッピー文化も流行現象としてありました)そして戦後の学生運動の核となってきた自治会の形式的民主主義も社会の行列の一つに過ぎない制度であるとして支持をされなくなった。

 

そんな状況の中、各大学で諸問題が発生した時に先進的な学生たちが闘争委員会を立ち上げ、それを核にして周りの者達が自分の自由意思でその運動に加わるというスタイルが自然発生的に生まれてきた。既成のものではない自分たちが新しい共同体を創るという高揚感(エネルギー)を結集して全学的な闘争組織に集約されていく。新しい歴史は常に前の歴史を否定する形で生まれてくる。共産党等の

既成政党を否定する新左翼が生まれたように、新左翼を乗り越える形として全共闘は生まれた。既成の組織の理念や論理から逸雑し間接民主主義を否定し、それぞれが自分の意思で直接参加し行動するというスタイルは「以前の既成政党などのスタイルではデモなどの抗議行動もすべて予定調和の範囲でしか動けない。そして大衆を総動員することはできなかったこと」をあっさり乗り越えてしまうのである。それぞれが自分の意思で闘争に加わる方式だと運動が盛り上がれば参加者はどんどん増え、執行部が把握できない状態にまでなる。最前線では先鋭化した集団の暴走も起きる。日大闘争はまさにそういう運動だったと思う。「大衆団交」の時には学生数が日大生8万人のうち3万5千人が参加。これは国を二分したと言われた60年安保闘争時の国会突入デモ人数13万人の4分の1の人数が一大学の集会に参加するのである。このように既成政党の指導から独立し、新左翼系の政治闘争に距離を置き、第3の道「大衆運動」の新たな水平線を切り開いた全共闘運動だが国家権力が全面出てくると初めて闘争した経験しか持たない集団の弱点である「戦術」や「戦略」や「未来への展望示す」など面が短期間に運動が急成長したために未熟なまま前面に出てきた国家権力と戦う闘争方法を確立できないまま(今までの戦い方ゲバ棒にヘルメット、バリスト)戦うしかなく(蟷螂の斧状態)次々制圧されていった・。また大学臨時措置法の適用、全共闘がセクト色が強くなった事などで一般学生の支持を失い急速に力を失った。その後この全共闘の運動形態を引き継ぐ、あるいは全共闘を超えるような運動体も現れることも無く実質2年でその幕を降ろしてしまう。

あれだけ勢いがあった全共闘が国家権力の介入であっけなく敗北。衰退していくのを目の当たりにした新左翼の各セクトは「巨大な国家にどう立ち向かうのか」その戦略やその元となる理論の対立などからセクト間で、あるいはセクト内の身内同士で内ゲバを繰り返し、分裂・衰退していく。そういう新左翼の動きの中に「国家の暴力装置に立ち向かうにはこちらも武装闘争路線=「早急に銃や爆弾で武装蜂起しなければならない」とその行動はますます過激化、武闘化                                                             路線を進んでいったのがブントから派生した赤軍派(1969年9月結成)であった。その2か月後,武装化への訓練中の大菩薩峠で大量の逮捕者を出し大きなダメージを受ける。その失敗から革命のため「国際根拠地」をつくり、そこで軍事訓練を受け、日本で「武装蜂起」するという考えに基づき1970年3月31日航機「よど号」をハイジャックして北朝鮮に渡航。赤軍派の残ったメンバーは新たな国際拠点をレバノンに求めた。重信房子を中心とするこのグループは「日本赤軍」と呼ばれ数々のテロ事件を引き起こしていく。まず1972年5月「テルアビブ空港銃乱射事件」(26人死亡 無差別テロ)1975年8月クアラルンプール事件(アメリカ大使館、スウェーデン大使館占拠。日本赤軍のメンバーの解放要求・日本政府要求に応じる。)1977年9月ダッカ事件(飛行機を乗っ取り人質と赤軍派メンバーの解放要求・日本政府要求に応じる。)

国内に残った最後の赤軍派は京浜安保共闘と連合赤軍を結成1972年浅間山荘事件(浅間山荘に人質をとり立てこもる。警官隊と銃撃戦)この事件の前の軍事訓練中に「総括」と称してリンチ殺人で仲間12人を殺害)

こうして見てくると全共闘運動の敗北後の運動は学生運動の範疇を超えるものとなってしまった。連合赤軍のリンチ殺人事件は過激な新左翼にさえ嫌悪感持たせるものであり、日本赤軍はもう完全にテロリスト集団になってしまった。スタートの第一歩を少し間違っただけで人間はこうも堕ちるものなのかと思う。彼らと同じ時代を現在進行形で生きて来たものとしてはやるせない気持ちになる。こうして長い歴史を持つ学生運動は1970年代末にはほぼ消滅状態になっている。学生運動の復活はあるのか。

全共闘運動のまとめ

社会問題
11 /05 2018
 

全共闘運動のまとめ
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1、  全共闘運動の定義

 まず簡単に戦後の左翼運動の歴史を振り返ってみるとアメリカの日本民主化政策もあり戦後の日本の混乱期には生活の向上を求めて組合運動が強く、それを支援する社会党などの政党が左翼運動をけん引していた。(三井争議など)その後1960年代ごろから先進国において既成左翼政党の運動を否定しより急進的な革命を志向する勢力=新左翼の勢力(各セクト)が出現した。そして1968年にそのどちらにも属さない新しい運動体としてノンセクトラジカルを中心とする全共闘運動が誕生する。基本的には思想・信条・立場に関係なく個人の意思で共通の目標(古田体制打倒)に向かって共に闘う連合体。(学生たちが「大衆団交」を執拗に求めた民主主義とは何かという概念=個人の意思が最優先されるべきとする考えがある)

 

2、  東大闘争と日大闘争の共通点と相違点

(1)共通点

  建物の占拠とバリケード・ストライキという実力行使を伴う抗議行動

デモなどで意思表示をする、あるいは話し合いなどでは問題は解決されない。自分たちの要求を通すには建物の占拠などの実力行使が必要不可欠(新左翼系三派全学連が主張)

  大衆団交を要求

根本的な取り決めをするときは全ての学生と理事は同等の立場にあり、全学生と全理事が立ち合い、公開の場で直接的に行うのが民主主義の大原則=個人の意見が述べられる場の保障・そのための情報は全て公開されなければならない。今までだと交渉事は双方から選ばれた代表団交渉し、その合意事項を持ち帰り大会で報告了承を得るというスタイルでした。それをしてはならないということです。それは学生側の代表者にも要求されました。

  東大当局者と古田体制

一見この二つはまるで正反対の体制のように見えますが、両者東大当局者(独善的・権威主義者)と古田体制(教育で利潤追求)は共に象牙の塔にこもり、社会の動き(60年安保闘争等)に関わろうともせず、戦前の価値観や行動原理を残したまま戦後20年をやり過ごしてきた。そして戦後民主主義教育の第1期生で「権威を否定」する20歳の団塊の世代と出会うことになる。

 

(2)相違点

①東大当局者と古田体制

実質的な闘争の始まりは東大の場合、学生の不当処分に抗議し て学生が安田講堂占拠。大学当局が機動隊の導入でこれを排除。この大学の行為は「大学の自治の自由」を放棄したと抗議して全校の共感(「全共闘と話し合いを拒否したままなぜ機動隊を導入した」)を得たからでした。

その大学の自治さえ認めていない日大では大学当局が抗議集会を妨害するための暴力的な弾圧があるなかでそれを撥ね返し、『日大初の200mデモ』を成功させてからでした。

そのため同じ様に全共闘を名乗り、システムも似た組織でありながら東大闘争は抽象的な思想闘争の側面が強くなり、一方学生の自治さえ認めていない日大闘争の方はまず集会の自由を認めさせる為に連日抗議集会を持つなどの具体的な行動が求められ、その集会をする度に周りにいる者を巻き込んで、さらに大きな集会へと盛りあがり見せていった。

  そして東大闘争は「大学の自治」「学問・研究の自由」の名のもとに営々と続いている東京大学の組織の腐敗・それに守られてきた大学当局者の精神的堕落等を告発する戦いとなり「東京帝国大学解体」のスローガンが掲げられる。そして東大当局者と同じ様に自分も悪しきエリート意識・権威主義に安易に埋没してきたのではないかと「自己否定」を絶えずしなければならないという結論にまで行きつく。

  闘争の長期化に伴い運動がより先鋭的なり、離脱するあるいは反対する者も出始めてくる。そこに政府の介入があり、運動の先鋭化集団が占拠する安田講堂の解除に機動隊導入により運動は終焉。

  私はこの東大全共闘の行動を幕末の下級武士たちが封建制度の下にいろんな屈辱に耐えていたところにその封建制度が揺らぎ始め、「尊王攘夷」という旗が掲げられ才能のある若者たちがそれぞれの思惑で動き始め、その動きが複雑に絡み合って早すぎる天才の死、早すぎた武装蜂起、藩改革など色んな群像劇が見られます。「大学解体」をスローガンに掲げて最後は安田講堂で機動隊と激しい攻防戦繰り広げた東大全共闘は幕末のどの辺に位置付けるべきなのか?と考えたりします。

  一方の日大闘争は23日に歴史的「200mデモ」後の連日持たれる各部の抗議集会に今まで政治や闘争に無関心だったノンポリ学生を巻き込みながら運動は盛り上がりつつあった。そして6月11日事態は一気に動く。抗議集会を行おうとする学生達に暴力的妨害をする大学側と激しい攻防戦が繰り広げられ、機動隊も出動する中、建物の占拠・バリケード構築・ストライキ決議・5項目の闘争スローガン採択して長期間のバリケード・ストライキに突入していく。

  長期間のバリケード・ストライキの生活や対大学との攻防戦を柔軟な姿勢で乗り切り、9月30日に大衆団交を実現させ5項目要求認めさせるも翌日の政府の介入発言により、理事側は交渉の誓約書を白紙撤回する。これで日大闘争は事実上終結する。

  日大闘争は元々の出発点からして自然発生的に運動体が産れているし、革命を目指す政治運動では無く、待遇改善を求める社会運動の一つであったと思っています。だからこちらは劇画作家白戸三平さんの「カムイ伝」で描かれている農民のイメージがあります。「カムイ伝」とは1964年スタートの三部作で現在二部まで27巻まで完成している。江戸初期の架空の藩を舞台として最下層の身分の非人(カムイ)、農民(庄助)、支配者として武士(竜之進)三者三様の若者を中心に物語は展開していく。ある時は身分制度や差別の問題が描かれたり、農民に対する支配階級の武士の苛酷な弾圧、それに対抗する農民の知恵と工夫で

したたかに生きていく姿が描かれている。

大学の管理と右翼支配のもと、下を向いていた日大生が自己を主張し、はじめて「自己肯定」した、そういうたたかいだった。そうだと思います。その時に湧いてきたイメージがこれとは正反対の立場にいた戦没学生は手記に「私は自由主義者です。その理論によれば日本は負けるでしょう。それが解っていても私は愛する祖国のために特攻隊員という誇りをもって明日飛び立っていきます」と書いています。これもまた一つの「自己肯定」でしょうね。

今回はここまでにしておきます。次回はやっと「全共闘の敗北と総括」に入れそうです・


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年表

社会問題
10 /28 2018

東大闘争年表

1968

1月29 東大医学部の学生がインターン制度に代わる登録医制度に反対し、無期限ストに突入。

3月12 医学部は、2月19の医局長缶詰事件で17人の処分を発表。

6月15 医学部全闘委の学生が安田講堂を占拠。

6月17 大河内総長の要請で、警視庁機動隊1200人が同大学構内に出動し、学生らは退去。

6月20 警察導入に抗議して、法学部を除く9学部が一斉に一日スト。

6月26 東大文学部無期限ストに突入。

6月28 大河内一男総長出席の安田講堂での「総長会見」。約3000人が参加し、溢れた2000人もの学生はテレビ中継した別の教室集会に参加という形式を採った。

7月2 反日共・新左翼系の学生ら、250人が安田講堂をバリケードで封鎖

7月5 東大闘争全学共闘会議(東大全共闘)結成(全共闘議長・山本義隆)。教養学部も無期限ストに突入。

7月16 全共闘、七項目要求確認。 

8月28 全学共闘会議の学生約200人が医学部本館を占拠。

9月16 本郷構内の5学部で学生大会、学部大会を開く。

9月22 全共闘の学生約250人が医学部附属病院外科系医局・研究棟にバリケードを築き、封鎖する。

10月12 法学部無期限スト突入。開校以来初の10学部「無期限スト」

11月1 東大評議会で大河内一男総長の辞任を承認。紛争の発端となった医学部の豊川行平前医学部長、上田英雄前東大病院院長の東大教授退官を承認。10学部の当時の学部長全員も辞任。

11月4 新学部長会議で加藤一郎法学部長を学長事務取扱(代行)に選出。文学部の法文2号館で文学部学生の処分を巡る「大衆団交」が始る。

11月6 林健太郎文学部長、岩崎、堀米両評議員の3人は禁足。成瀬助教授は疲労で退場。教授側は「不法監禁」と掲示。

11月8 100時間を超え、教官有志は「基本的人権の重大な侵害。大学を無法地帯とする愚挙。」と声明を発表。35名が署名。三島由紀夫阿川弘之ら学者・文化人グループは「緊急の訴え」を出す。

11月12 林文学部長はドクターストップのため、173時間ぶりに解放。緊急入院をする。総合図書館前で全共闘と民主化行動委員会(民青系)(議長:三浦聡雄医学部生)が全学封鎖を巡り乱闘。

11月14 法学生大会、全学封鎖反対決議。

11月18 全学集会で東大当局と全共闘との予備折衝物別れとなる。

11月19 工学生大会、全学バリ封鎖反対可決。総長代行らと統一代表団準備会(日共系)との予備折衝。

11月22 「東大・日大闘争勝利全国学生総決起大会」開催。東大闘争の天王山、全学バリケード封鎖の強行の挫折。

12月29 加藤学長代行と坂田道太文相が会談、「現状のままでは入試中止。1969115日までにスト解除・授業再開の見通しが立てばその時点で再考」とすることで意見が一致した。文部省(当時)が、大学側の意向を無視し1969年度の東大入試中止を発表する。

1969

1月4 加藤総長「非常事態」宣言。

1月9 全共闘、教育・経済学部の民青を攻撃。加藤総長の要請で機動隊が大学構内に入る。

1月10 秩父宮ラグビー場7学部代表団と大学側の集会。十項目確認書作成。

1月14 駒場共闘、駒場キャンパス8本館に籠城。民青、一般学生、教官、機動隊と攻防。(21日撤収)

1月16 加藤総長が機動隊に本郷キャンパスのバリケード撤去を要請する。

1月18 封鎖解除実行(安田講堂攻防戦)。東大内での逮捕者は600名以上。学生支援のため神田・本郷界隈で神田カルチェ・ラタン闘争発生。

1月20 東大当局が入試中止を受け入れる。

 

                   

日大闘争年表 

1968

1月26日 理工学部・小野竹之助教授(本部教務部長)5000万円脱税発覚。

国税庁による税務調査の端緒となる。

4月15 東京国税局、「使途不明金20億円」を公表。以後、新聞、テレビ、週刊誌で大学当局の杜撰な運営実態や理事会での派閥の暗闘、土地取得に絡む金銭スキャンダルなどが報じられた取材で、使途不明の累計は34億円と伝えられる。

5月23 経済学部当局、他学部からの集会参加を阻止するため、急遽、学生証検査を強行。経短学生会の地下ホール集会に法学部、文理学部の学友ら70名をふくむ200名が参加。集会阻止のため動員された体育会系学生40名の妨害にも関わらず、集会は800名に膨れあがった。集会後、経短学生会は、他学部から駆けつけた学友を、無事、学外に送り出すため検問を突破。学外に待機していた学友らと合流。1200名が隊列を組み、校歌を歌いながら、白山通りではじめての街頭デモ。これがいわゆる「200mデモ」である。

5月27 文理学部では3000名が結集して大講堂前で集会。大学および学部当局を弾劾し、文理学部闘争委員会(田村正敏委員長)の結成を宣言。
法学部では三号館前で1500名の集会。法学部闘争委員会(酒井杏郎委員長)を結成。
経済学部前で、経済学部をはじめ、法学部、文理学部、商学部、芸術学部、理工学部、農獣医学部、歯学部などから5000名の学友が結集、はじめて全学総決起集会を開催。「日本大学全学共闘会議」の結成を承認。議長に秋田明大(経短学生会委員長)を選出する。
この時点での全共闘執行部はつぎの6名。
議長・秋田明大(経済四年) 副議長・矢崎薫(法四年) 書記長・田村正敏(文理四年) 組織部長・今章(法三年) 情宣部長・戸部源房(経済四年) 会計部長・中山正宏(文理四年)

6月4日 各学部で決起集会。法闘委は法三号館前、経闘委は経一号館前、文闘委は大講堂前で集会。文闘委と商闘委の学友、理工学部の学友に連帯を呼びかける。礫川公園での「六学部自治会共闘」の集会に参加していた農獣医学部の学友600名が経済学部に到着。この日の決起集会は、遠く文理学部三島校舎や郡山の工学部からも学友が参加し、10000名と最大規模の集会となった。
本部正面に経闘委、商闘委、理工、法一号館前に法闘委、文闘委、芸闘委、農獣医の学友が座込む。全共闘代表団14名、本部の細谷英夫学生部長と会見。611日の団交要求を通告。
法学部の一部学友が「全共闘は生ぬるい」として本部に突入。二階の学生部長室前で抗議集会を開く。この本部突入事件は、全共闘にとって想定外だったが、学生大衆の怒りは全共闘に戦術転換を迫り、ストライキ突入を視野に入れた闘争方針が策定される。
この日、大学当局は靖国神社に体育会系学生1000名を集めたが、組織的妨害を断念。

6月11 日本大学学生会議、全共闘を「実力で粉砕する」と声明。
経闘委、法闘委、文闘委、商闘委、芸闘委など各学部で決起集会を開く。
経済学部では、ヘルメットを被った吉田寛学部長が、地下ホールに体育会系学生250名を集めて「不逞の輩から経済学部を守れ」と訓示。
守衛が経済学部一号館正面玄関のシャッターを突然閉めはじめる。学友20名がシャッターに取りつき素手と旗竿で阻止。その時、学内に立て籠もった体育会系学生を発見、学友150名が学内になだれこむ。これを見た職員は体育会系学生を指揮して、木刀を振りかざし、無防備の学友に殴る蹴るの暴行を加えた。
さらに一号館の上階から、体育会系学生はもちろん守衛までが、集会に参加し座込んだ学友をねらって、石やコーラビンなどをつぎつぎに投げ込む。一瞬、5000名は総立ちとなったが、そこにも机、椅子、鉄製の灰皿などが見境もなく投げ落とされ、地獄絵さながらの惨状。頭蓋骨や肩甲骨を損傷した負傷者が続出する。
「やめろ!人殺し!」の怒号が乱れ飛ぶが、二階のバルコニーでは、体育会系学生がこれ見よがしに日本刀(白鞘)を振りまわし威嚇。この間も放水や消火器、催涙ガス液を浴びせ、重さ10kg、幅60cmのスチール製ごみ箱やロッカー、果ては砲丸の鉄球までもがデモ隊にむかって投げ落とされた(砲丸の鉄球は証拠品として弁護団が押収)
全共闘は態勢を立直すため、一旦、本部へ抗議のデモ。ここで秋田議長はスト突入を宣言。この時、白山通りから経済学部二号館前の路上に赤白モヒカンのヘルメットが投出される。周辺の学友が急いで装着、50名の行動隊が編成され、つぎつぎと正面玄関から学内に突入。缶ビールが投げつけられるなか、体育会系学生の築いた手前のバリケードを突破。奥側のバリケードに取りつくが、日本刀や木刀、ゴルフクラブやチェーンなどの凶器を振りかざし、消火器を吹きつける職員と体育会系学生に阻止され、正面玄関や守衛室付近まで押しもどされる。
この間、100名ほどの学友が白山通りの窓からも一号館に突入。しかし、立て籠もった体育会系学生の暴力に抗し得ず、顔面を血だらけにした学友や殴打され気絶した学友を搬送するため、撤退。
大学当局は機動隊800名の出動を要請。学友らは機動隊が加害者の体育会系学生を排除してくれるものと誤認、拍手と歓声で迎えたが、機動隊は体育会系学生の暴力行為を制止するどころか、被害者の学友たちを規制する暴挙にでる。怒りの抗議をする学友らが排除され、規制に抵抗する学友6名が検挙された。
法闘委は、法学部三号館前でスト権を確立。三号館を占拠し、バリケードを構築。
経済学部前で機動隊に規制され、分断された学友らは本部前で抗議のデモを展開。その後、法学部三号館に結集し、200名が泊まり込み態勢を取る。
この日、負傷した学友は入院40名、全治二週間の重傷者60名をふくめ200名にのぼる。
全共闘は五項目からなる闘争スローガンを採沢。
①全理事総退陣 ②経理の全面公開 ③不当処分白紙撤回 ④集会の自由を認めよ⑤検閲制度撤廃。

7月4日 全共闘、「夏休み策動粉砕全学総決起集会」(経済学部一号館)。全十一学部から15000名結集。文闘委主催の学生大会に2000名結集。「久米執行部弾劾決議」を採択。大会後、鈴木知太郎学部長以下、全教員出席のもとで学部団交を開催。

9月4日 東京地裁の仮処分決定にもとづき日大本部、法学部、経済学部が強制代執行。バリケードが800名の機動隊によって破壊される。法闘委と経闘委の学友132名逮捕。
全共闘は理工学部九号館建設予定地で2000名の全学抗議集会。集会後、法学部、経済学部を再占拠。バリケードを構築する。
郡山の工学部闘争委員会(大塚規雄委員長)、無期限スト突入。

9月5日 法学部、経済学部に、再度、機動隊が導入。バリケードが破壊される。5000名の全学抗議集会。白山通りで10000名がデモと抗議集会。三度、法学部、経済学部を占拠。津田沼の生産工学部、校舎を占拠し、スト突入。

912 全学総決起集会に7000名が結集。集会後、白山通りのデモで機動隊と衝突。学友2名負傷。機動隊の弾圧で逮捕者は154名。全共闘は法学部、経済学部を奪還。バリケードを再構築し、再度、長期スト態勢を確立。

930日 全共闘は経済学部前で10000名の全学総決起集会。両国の日大講堂では農獣医学部を中心とする学内右翼学生集団「日新会」など800名が集会を開き、大学当局の意にそった「全学集会」を画策するが、全共闘行動隊300名は「日新会」の学生200名を両国講堂から排除。学友25000(最大で35000名とも)が結集し、十二時間にわたる大衆団交が開催される。
全共闘は冒頭で「なによりも悲しむべきことに、ひとりの人間が死んだ。それなのに、なぜ理事会は仮処分を撤回して、自らの犯罪性について自己批判しないのか」と大学当局を批難するとともに、西条巡査部長への弔意をささげる。
古田会頭をはじめ出席した理事や学部長らは九項目の要求を全面的に認め、誓約書につぎつぎと署名。そのたびに歓声と紙吹雪が舞った。
この間、生産工学部のバリケードが「学園浄化促進委員会」と称する学生集団に撤去されたが、津田沼闘委は教職員のピケットを破り、構内から「浄化委員会」の学生集団を排除。本館を再び占拠した。

101日 佐藤栄作首相、閣議で大衆団交を重視し「政治問題として取り上げるべきだ」と異例の発言。官邸内に大学問題閣僚懇談会を設置。中曽根康弘運輸相はじめ7人の閣僚と秦野章警視総監による第一回の会合を開く。
佐藤首相は、それまで記者団に大学問題を問われても「まだ社会問題や政治問題とは思わない」と発言していたが、それが一転したのは、当時、全国の五十を越える大学で学園闘争が頻発しており、この大衆団交方式が全国の学園に波及することを恐れたためと考えられる。と同時に、古田会頭は、首相が関係している「日本会」の有力会員で、首相とも緊密な親交があり、そのことが首相をよけい奮起させたとの観測もながれた                              

10月5日 全共闘議長の秋田明大などに公安条例違反、公務執行妨害の疑逮捕状がだされる 

 

1122 東大安田講堂前にて「日大・東大闘争勝利全国学生総決起大会催。全国から15000名が結集。日大全共闘は3000名の隊列で三崎町から本郷にむかう。全共闘旗を翻しながら、夕暮れの銀杏並木を隊列が進んでいくと、安田講堂前の広場にどよめきと歓声が湧きおこった。東大全共闘の学友のなかには、この光景を泣きながら見つめている者がいたという。

日大闘争とは

社会問題
10 /24 2018
日大闘争 
日大闘争は同じ全共闘と言っても東大闘争とはまた違います。またまた話が長くなってしまうのですが、色んな細かい部分を語らないと解って貰えないと思います。闘争の直接のきっかけは教授の裏口入学謝礼金の着服事件と国税局の調査による20億円以上に上る使途不明金が発覚したことが学生たちの疑惑と怒りを呼び、多くの学生たちを闘争に立ち上がり、そして学生運動史上最大・最強を謳われた日大全共闘が生み、その後の戦いの中でごく普通の学生が闘いの中心を担うようになっていった過程を色んな人たちが後日談として語っているのもこの運動の性格を表している。
当時の古田会頭のもと営利第一主義を方針として掲げ、大学という教育の場を利潤追求の場としてマスプロ教育を推し進め、学生たちは高い授業料を払わされ、劣悪な教育環境の中で大きな不満を抱えていた。その不満を抑え込むために自治を与えず、ビラや掲示や集会などは全て検閲制度とられ、憲法が保障する表現、言論、集会の自由が全くない状況のうえ更に何かあれば私兵暴力集団(体育会系、応援団)で抑え込む体制が完璧に出来上がっており古田会頭は「学生運動の無い唯一の大学だ」と豪語していた。
ところがこの使途不明金問題への学生の怒りは大きく、最初はサークル単位の討論会が学部単位の抗議集会へと集約され次第に広がりを見せていく。そして5月23日には偶発的だったようだが経済学部の集会で日大生が「偉大なる200mデモ」と呼んだ日大生としては初めてのデモが行われた。これが新聞報道されたことによって都内各地に散在している他学部の学生の知るところになり、25日大講堂前の集会には当局や体育会系の暴力的妨害を受けながら自然発生的に3000人の集会となりデモを行った。この二つの出来事が全日大生に大きな衝撃を与え、古田体制への反撃を決意させたのである。
そして5月27日初めて「全学総決起集会」が開かれ、「全理事総退陣」「経理の全面公開」「集会の自由」「不当処分の白紙撤回」など4つのスローガンを決め、日本大学全学共闘会議が結成されたと宣言はしたけれど、運動体としての組織はまだこれから創りあげる途中であった。その次の日から連日大衆団交要求集会を体育系学生による暴力的妨害に負傷者を出しながらも貫徹させ、この闘争のターニングポイントとなる6月11日を迎える。
6月11日の集会には学生課や右翼グループが校舎から学生を排除するため建物を封鎖した。その時中にいた右翼暴力団はビンを投げ、木刀を振り回し、学生たちに襲い掛かって来た。また別の所では4階から机、椅子、ロッカーなどが学生たち向かって投げたりしてあらゆる手を使って学生たちを排除しようとした。一方の全共闘の秋田議長は「暴力団から学園を奪い返し、民主化闘争を前進させよう」と『ストライキ宣言』を発表した。両者の攻防が膠着状態になった時、大学の要請を受けた機動隊が到着。学生たちは加害者の体育会系の学生を排除してくれると誤解し、拍手と歓声で迎えたが、機動隊は体育会系の学生の暴力行為を制止するどころか、被害者の学生達を規制し始めた。経済学部から追われた学生たちは法学部の校舎を占拠し、右翼暴力団の襲撃に備え急遽武装バリケードを構築した。
翌日全共闘は「我々は昨日の集会で圧倒的にスト権を確立し、直ちにストに突入した」と宣言した。これについて「大学本部前で秋田議長のストライキ宣言が発せられ、そこに集まった数千の学生に歓呼の声で迎えられた。これが大会であり「ストライキ決議」であった。この方式こそ「直接民主主義」だというのである。学生が個人として誰もが自由に参加し、討論し、決オ議し、それを自ら実行する。そういうあり方を主張している」と解説している。
一方バリケード・ストライキの方は翌日に経済学部を皮切りに各学部が次々にストライキに入り6月24日、医学部以外は全ての学部がストライキに入った。このバリケード・ストライキは今までの運動の成果であり、これからの運動の出発の拠点(所謂古田体制を拒否して日大を学生のための学園にするため)と位置づけられた。
この「バリケード・ストライキ闘争」の中で学生達が執拗に求めたのが「大衆団交」という事です。東大闘争の時にも要求項目に挙げられました。私たちの世代には当たり前の感覚なのですがどうもその感覚が上の世代には通じないようなのです。根本的な取り決めをするときは全ての学生と理事は同等の立場にあり、全学生と全理事が立ち合い、公開の場で直接的に行うのが原則である。(私の学校では「ボス交反対」と言っていましたが)民主主義の大原則個人の意見が述べられる場の保障・そのための情報は公開されなければならない。今までだと交渉事は双方から選ばれた代表団交渉し、その合意事項を持ち帰り大会で報告了承を得るというスタイルでした。それをしてはならないということです。それは学生側の代表者にも要求されました。
その感覚・考え方がどこでどう身に着けたものかわかりませんが、当時の今までそういうことは全部周囲の者たちが処理して守られてきた東大と日大の当局者は自分個人の力のみで大勢の学生に対処しなければならない大勢の目の前でさらし者されると恐怖を感じたと思います。


今回はここまでかな。あれもこれも言っておきたいと話がどんどんと長くなります。出来ればもう少しお付き合い下さい。

東大闘争とは

社会問題
10 /20 2018

はじめに

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 何度も繰り返し言っていますが、私はそこが全共闘の運動を考える時に外してはならない視点だと思いますので、以前言い忘れたことも少し付け加えながら確認しておきたいと思います。

私たちの世代は戦前の価値観を持ちながら戦前の軍国主義を全否定する形(全体主義には個人主義であり、権威の否定、平等の思想、そして個人の権利と自由等)で子供を育てなければいけなかった親の世代の元で戦後民主主義教育の第1期生として成長してきました。そして日本の社会も戦後の日本の混乱期から脱し、経済は高度成長を続け発展途上国から先進国へ一気に駆け上がってきました。その急成長故の歪や矛盾の解決する時間も考える余裕も持てず問題を中途半端にしたまま日本社会は68年を迎えました。そしてもう一方の私たちの世代も思春期に入り自分の存在理由を考え、世の中の矛盾や不合理なことに気づき始めます。急速な経済成長は頭脳優秀で従順な会社員を大量に必要としそれに合わせるように社会のシステムも変わりつつありました。受験戦争は激化し大学に求められることが変わり、大学の在り方・学生の存在理由が問われる時代になってきました。その時私たち団塊の世代が大学生だったわけです。それがあの全共闘運動を産み出したのだと考えています。

 

 

東大闘争

全共闘運動以前の学生運動では抗議の手段として授業放棄やデモぐらいにとどまっており大学当局が痛痒を感じるものではなかった。当時の東大の大学当局も医学部が登録医制度に反対する無期限ストに突入したときも楽観的な見通し持っていたと思います。しかし時代は移り変わっていました。67年の第1次羽田闘争でヘルメットにゲバ棒というスタイルで機動隊に立ち向かう学生達の出現は時代の変化(学生運動はより過激なる)を予見させるものでした。そんな事に興味も関心も無かった学校当局はこの登録医制度問題を巡る学生への不当処分を行い、それを発端として学生たちは抗議行動として安田講堂占拠、機動隊の導入でこれを排除したことが今度は他学部の学生達の反感を呼び、7学部が無期限ストに突入安田講堂前で7000人の集会を開催。そして大河内一男総長は大衆団交拒否。学生たちは再び安田講堂を占拠。講堂内集会において各学部の代表者や各党派の代表が集まり全学共闘会議が結成され、医学部不当処分撤回、機動隊導入の自己批判などの7項目の要求で闘争宣言

こうして既存の政党の下部組織でもなく、各党派のように思想の元に運動する組織でもなく、思想・信条は異なっていても「別個に立って共に敵を撃つ」という行動原理で全く新しい運動体が出現したのだ。その運動体を纏めていくためのスローガン的に語られたのが「連帯を求めて孤立を恐れず、力及ばずして倒れることを辞さないが、力尽くさずして挫けることを拒否する」という言葉なのでしょう。

各党派や既成政党はまず理論や思想、世界観があり、それを実現するための目標や工程、行動が決まりそのために運動体としての組織が必要す。組織の効率だけで云えば独裁体制が一番いいが、組織全体を維持していくためには個々の意見も反映させる間接民主主義をとる。個々が代議士一人を選び。その代議士が執行役員を選び、執行役員が方針を多数決で決めその多数決で決まったことにはその組織員は絶対に従わなければならないという暗黙のルールがあります。

それに対して「全共闘方式」では個々、各党派が個人の自由意思でこの運動に参加している側面を持つため、直接民主主義の方式を採らざるを得ず、相当な議論が必要だし、ある決定事項に自分の意思表示や自行動は由裁量ができる良さを持つ反面組織全体を考えると組織は常に崩壊する危機を内包しています。

そのような運動体を結束させ行動を維持していくためにはターゲットは何か、何を目指すのかの目的などをはっきり打ち出さないといけません。そして所謂理論武装して、行動はより過激な方向へと向かわざるを得なくなります。

前回「私たち全共闘世代の特徴として個人主義が尊重され、権威の否定は当たり前で長幼に関係なくみんな自由で平等であるべきだし、大人数いる団塊の世代の中では個人の主張を強く述べる事が大事でその理屈や議論することで民主的方法により勝ち残る術を身に着けてきた。」とのべました。東大生はエリート集団です。私たちが挫折した色んな出来事を簡単にクリアして人生順風満帆で東大に入学してきたと思います。そしてもう一方の大学当局の方も「大学の自治」「学問の自由」を盾に取り俗世間とは違った行動理念で戦後をやり過ごしてきました。自分たちが批判されることがあるはずがないとある意味で民主主義の理念を理解しようともしなかった戦前の古い体質がまだまだ残している最後の集団だったと思います。その両者がぶつかりあった。今までの人生に失望したりする事が無かった学生の方に「憧れて入学した東大が「民主主義のイロハ」のイも知らない」と大きな失望が広がって「だったらそんな大学なんて潰しちゃえ」となった部分も大いにあると思います。

「真理を追求する」べき大学で医学部の無期限ストライキがなぜ起こったのか、学生は何に怒りをぶつけているのか?知ろうともしない、まともに向き合わない姿勢や普段「大学の自治」重要性を説きながら学生達と話し合おうともせず、簡単に外部の力を借り解決しようとする姿勢を学生たちは糾弾した。東大の教授であるという特権的地位にあぐらをかき実は何もしてこなかった教授陣を痛烈に批判した。天皇制も含めて戦前のあらゆる権威を否定する戦後の民主主義の教育で育ってきた全共闘世代にはこういう権威主義者はどうしても許せなかった。そして「東京帝国大学解体」をスローガンにした。

それは明治以来営々と続いてきた東京大学の制度や精神の病理を告発し、解体して「人間」の復権を目指す新しい大学を創りだすはずだった。東京大学が持っている様々な欺瞞性を告発していく過程の中でその東大の一員であった内なる自分こそ告発されねばならないのではないか?それを乗り越えない限り運動の発展は望めないと「自己否定」する必要性がこの東大闘争のテーマになった。

東大闘争ではこの「大学解体」と「自己否定」のスローガンが登場して「大学問題」の枠を飛び越えて「学生と国家権力の戦い」という構図になってきた。それは元々結成当初から各党派が加わっていて政治色が濃い全共闘であったから「社会運動」より「政治闘争を」という流れになったのだと思います。大学当局の硬直した傲慢な姿勢に学生達は怒り、行動をより過激化させていったのだと思います。

 

今回はここまでにしておきたいと思います。申し訳ありません。自分が予想していたより話が長くなってきています。



グッチー

昨年古希を迎えました。人生も終盤。学生時代の言葉で言えばそろそろ人生の「総括」と何か新しい自分を発見するためブログを始めました